『どこでも刑法 #総論』
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そこでしか得られないものの価値と、どこでも学べるということの価値
[レビュアー] 和田俊憲(慶應義塾大学大学院法務研究科教授)
そこでしか・南国編
本書『どこでも刑法 #総論』の著者校正を終えて、あとは見本が届くのを待つだけとなった昨年9月、立て続けに内外の数か所に出かけることになった。
まず向かったのは学部ゼミの夏季合宿である。自由度の高さを標榜しているゼミなので、普段のゼミの内容はもちろん、合宿の行き先もゼミ生に決めてもらっているが、今年度は4年生が台北、3年生が沖縄になり、しかもよりによって日程が完全に重なっているという。制約なき自由はこのような事態をもたらす。仕方ないので、前半は台北、後半は那覇に行って、両方に顔を出すことにした。
こちらは滞在時間が短いから食を満喫するしかない。台北では龍山寺の胡椒餅が脳に響いた。味覚野のうち日本にいる間は休止している部分が急に覚醒させられる感じである。まさに旅の醍醐味。数年に1回は行きたくなる。
直行便で戻った那覇では牧志公設市場至近の〈料理工房てだこ亭〉にて創作イタリアンに舌鼓を打った。この予約必須の名店は、ゆたかはじめ(石田穣一)氏(那覇地裁所長や東京高裁長官を歴任され、法曹レールファンクラブを立ち上げ、現在もエッセイストとして活躍中)のご令嬢が切り盛りされている。この日お任せで供されたのは、島どうふのカプレーゼ、県産生オクラとモーイのサラダ・パッションフルーツ入り、県産なすのオーガニックトマト煮込み、自家製ハム盛り合わせ、伊江島産小麦のフォカッチャ、とれたて近海鮮魚のアクアパッツァ、県産豚のクリームミートソース、沖縄やさいのパスタ。それらがオリオンビールとともにきらきら輝く川をなして、さわやかに、しかししっかりと、真夏の体内を駆け巡る。何度来ても至福のひととき。昨年、開店20周年を迎えた同店は、10月から〈お肉とチーズのてだこ亭〉として生まれ変わっており、イタリアンとしては食べ納めとなった。ちょうど十五夜だったので沖縄の伝統的なお菓子である「ふちゃぎ」をいただいたのもよい記念になる。できることなら季節ごとに訪れて満タンになりたいレストランである。
そこでしか・北国編
翌週は私用で北海道の釧路に飛び、こちらはすでに秋風が吹く中、弊舞橋近くの〈つぶ焼かど屋〉に向かった。創業50年以上を誇る同店は食べ物のメニューが「つぶ焼」と「ラーメン」のみという潔さである。醤油ベースの伝統のソースが注入されて貝殻ごと焼かれたつぶ貝が5個、専用の木製の台に並べられ熱々のまま運ばれてくる。火傷しないように注意深く楊枝で身と肝を取り出す。旨味と苦味のデュエットは貝ごとに少しずつ異なる調べである。福司の冷酒との往復を経て貝殻の中に残った煮汁もすべて飲み干したころ、見計らったようにラーメンが出される。ところが、ここのラーメンは何かが足りない。スープには塩っぱさと油っぽさはあるが決定的なものが足りないように感じる。それが何であるかを脳が検索し、気づくのである。あるべきなのに無いのは旨味である、と。そして、無いはずはないと考えた脳はただちに旨味を発見する。直前に食した焼きつぶの出汁の記憶の中に。つまり、つぶ貝の旨味が数分の時間を超えてラーメンのスープと融合するのである。逆に言えば、ラーメンのスープが時を遡ってつぶ貝の旨味を引き出すのである。思わずこのラーメンの機能を〈出汁の旨味の事後従犯〉と名付けた。このトリックに掛かりに訪れる地元客と旅行客とで二十数席の店内は夜遅くまでつねにほぼ満員である。寒い季節が到来するたびにその一員になれれば、次の1年間、その記憶だけで幸せに暮らせそうだと言ったら、さすがに言い過ぎだろうか。
釧路から帰京した翌日、再び北海道に飛んだ。向かったのは富良野である。学部生時代に参加した森林演習と称する教養課程のゼミでは、富良野にある農学部の演習林で植林を行った。それからちょうど四半世紀が経つので有志で集まり見に行こうという企画である。植えたアカエゾマツは思ったほど高くも太くもなっておらず、ありきたりではあるが、樹木のライフサイクルの雄大さと、それと比較したときの人生の矮小さとを実感した。細かいことは気にしないモードのまま富良野駅前の郷土料理屋〈くまげら〉で「熊のしょうが焼き」を食した。鹿肉料理は近年かなり広がってきたが、熊肉はさすがに珍しい。何の肉でも濃いめのしょうが焼きにすれば美味しく食べられることを発見した料理であると思った。演習林には五年後に再訪する予定なので、そのときにまたメニューを見ると気になるに違いない。
どこでも学べる
東京に戻るとほどなくして本書『どこでも刑法 #総論』の見本が出来上がったという連絡が入った。そこでしか味わえないものを散々楽しんだ直後だったからか、「そこでこそ」の価値に照らして、一瞬、「どこでも」を薄く軽く感じてしまったが、そういうことではないということを思い出した。本書のタイトルは、「どこにでもある刑法の教科書」を略したものではない。「どこでも学べる」ということである。「どこでも学べる」というライトさは本書でしか得られないのであり、本書の価値はその点にこそあるのである。
本書の欧文タイトルは、“Lernu Criminalan Juron ie ajn.” となっている。これはエスペラント語で「どこでも刑法を学ぼう」という意味である(訳出にあたっては、一般財団法人日本エスペラント協会の事務局の方にお世話になった)。エスペラント語を選んだのはもちろん、(英語やドイツ語、フランス語ではまったくおもしろくないというだけでなく)それが世界共通語(を目指したもの)であり、「どこでも」性と最も強く結びつくからである。
どこでも学べるということを自信をもって謳えるのは、本書が次のような特長をそなえていることによる。
①1項目が4頁または6頁の分量に抑えられ、記述が必要十分で、論理のエッセンスが把握しやすい。
②短めの事例を数多く積み上げて説明するスタイルで、具体的なイメージをもちながら学習できる。
③各項目間の論理的な順序が行ったり来たりせず、一次元的に流れるように組み替えられているので、思考のワーキングメモリを余計に消費しない。
④基本中の基本の項目だけでまず一巡させたあと、二巡目で少し複雑で応用的な項目をみていくという構成で、刑法総論全体の体系的理解が得られやすい。
本書は体系書ではなく入門用の教科書である。その執筆を支えたのは、刑法解釈論の学問体系を主張したいという欲求ではなく、何とかして刑法解釈論の基幹部分の理解を身につけてもらいたいという気持ちである。その基礎にあるのは、せっかく講義をしても期末試験の答案を見るかぎりまったく伝わっていない層が想像以上に厚いという絶望であった。
本書の元になったレジュメを用いた刑法総論の授業では、必修科目であるにもかかわらず(つまり好きで履修しているわけではない学生が少なくないにもかかわらず)、期末試験の受験者全員を合格にすることができた。これは自慢できることだと思う。もっとも、ひとたび、誰も単位を落としていないようだ、となると、次の学期からは勉強しない者が現れて、全員合格は1回限りで終わってしまった。そして本書の刊行後は、授業に出なくても読めばわかるということになって、出席者自体が減ってしまっているのが悩みである。今後、講義の中では、「テキストにはこう書いてあるが、実は……」という話をもっと積極的に増やしていきたい。本書だけでもかなり内容ゆたかであるとは思うが、本書が目指しているのは最初の1冊としての決定版であり、その先に刑法総論のさらに豊穣なる世界が無限に広がっていることは、言うまでもない。
想定読者
本書の中核的な読者として想定されているのは法学部の刑法総論の履修者である。法学系の学部の在籍者数は全国で1学年あたり4万弱らしい。刑法総論が必修でない学科等を除いて少なく見積もっても、毎年2万人くらいは刑法総論を履修していることになりそうである。その履修者が講義の開始と同時に本書を読み始めれば、テキストとして指定されているか否かにかかわらず、理解が進むことは間違いない。本書は基本的に判例をベースにして学説ニュートラルに書かれているので、ほかの教科書や体系書との相性を気にしなくてよいところもポイントだといえよう。
法科大学院のいわゆる純粋未修者も本書のメインターゲットである。未修コースでの学習は時間的にかなりタイトであるから、進学前に本書を一通り読んでおけば余裕をもってゴールデンウィークを迎えられるはずである。完全な初学者でも読み進められるように書かれているところが本書の特長であり、進学前にひとりで読むことにも困難はないと思う。
完全な初学者でもよいということは、意欲的な高校生も想定読者の射程に入ってくる。常識と一定程度の論理的思考力とがあれば高校生のうちに刑法総論の基幹部分を習得することも難しくない。特に法学部への内部進学を志望する附属高校の生徒には一読を強くお勧めしておこう。あるいは、もっと広く、学部を選択する際の判断材料にも使えるかもしれない。法学部人気が急に盛り返したらどうしよう。
なお、我が家の幼稚園児も、完成した本書をぱらぱらめくりながら「さくさく読めそう」と言っていた。
貴重な発見
本書は全頁にわたって鉄道系のデザインが散りばめられている。これはもともと『電車で刑法』という仮タイトルだったことなどに由来している。意識のうえではどの頁を開いても楽しい感じがするし、理解がぐんぐん進んでいる印象を無意識のうちに与える効果もありそうである。
関連する重要事項をひとつ記しておきたい。各頁にふられた頁数(いわゆるノンブル)は鉄道のキロポストのデザインになっている。各路線の起点からの距離を示すべく線路脇に立てられている、誰でも目にしたことがあるはずの、あの標識である。キロポストだから当然なのであるが、本書の本文冒頭、1頁のひとつ前の頁には「〇キロポスト」が印刷されている。つまり、本書には0頁が存在するのである。この「ゼロの発見」は新時代のテキストにふさわしいものと自画自賛している。ここから新たな何かが始まる予感がする。
それらの革新的なデザインを中心に大変にお世話になった本書担当の編集者が刊行の直前に転職してしまったので、担当編集者に献本するという貴重な機会を得た。その編集者は続刊が期待される『#各論』の表紙のデザインを置いていった。ちなみに、本書『#総論』にはハイレベルな誤植が1か所残されており、これを最初に見つけて編集部まで連絡をくださった方には『#各論』を贈呈しようということになっている。ただし、具体的な刊行予定は、残念ながらまだない。