今月の文芸誌 論評を巡って著者と評者の熾烈バトル
[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)
今回の対象である文芸各誌2月号(『文藝』は季刊なので春季号)に発表された小説作品では、倉数茂「あがない」(文藝)の読み応えが充実していた。
主人公は、抗不安薬依存に陥り、妻子との生活を破綻させた過去のある祐(たすく)。祐は、解体業の仕事に就き社会復帰した現在も、実存に対する不安を払拭できないまま、「一日一日を水の入ったコップと思い定めて」凌いでいる。その危ういバランスが、成島という若い男の出現で崩される。成島の言動から、かつて自分を支配し破滅に導いた売人・橋野の影が呼び覚まされ、祐は精神の均衡を失っていく。
濃(こま)やかで的確な文章と描写で実現された、祐の精神を映すヒリヒリした緊張感が持続されるのが何より素晴らしいと思った。この緊張感が、存在の寄る辺なさという現代的なテーマに説得力を与えている。
『文藝』の特集は「中国・SF・革命」。劉慈欣(りゅうじきん)『三体』のヒットを受けたもので、日中の作家による短篇競作が柱だが、内の一篇、樋口恭介「盤古」をめぐりネット上で事件があった。
『文學界』に「新人小説月評」というコーナーがある。「芥川賞の下読み」とも言われる欄なのだが、3月号での自作に対する評価に、樋口が「note」というウェブサービスにて「腹が立った」と抗議したのだ。
月評の現在の担当者は、画家で評論家の古谷利裕、フォークナーが専門の文学研究者・小林久美子の二名だが、樋口は二人とも「指摘内容が非常に恣意的」で「プロの仕事ではない」と指弾した。古谷は、樋口の「note」のコメント欄で自分の指摘は適切ではなかったと謝罪撤回したが、小林からの応答はないようだ。
最果タヒもツイッターで両者の論評に言及し、自作「あなた紀」(文學界)への小林の指摘に対し、認めつつ異を唱えていた。
小林の論評スタイルは、作品の理想像をこしらえ、それとは違うと批判する規範批評というやつで、まあ、作家からしたらむかつくであろう質のものだが、忖度と儀礼で満たされた文芸誌というアリーナに、突如ヒールが舞い降りた予感に固唾を呑んでいる。