【解説・宮部みゆき】 徳一さん(72)の日常を綴る本作から教えられた、なにげない日々の尊さ。 そしてフィクションの力。京極夏彦『オジいサン』

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文庫版 オジいサン

『文庫版 オジいサン』

著者
京極 夏彦 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041084441
発売日
2019/12/24
価格
836円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【解説・宮部みゆき】 徳一さん(72)の日常を綴る本作から教えられた、なにげない日々の尊さ。 そしてフィクションの力。京極夏彦『オジいサン』

[レビュアー] 宮部みゆき(作家)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説者:宮部みゆき / 作家)

 二〇一一年三月十日。
 本書の単行本の奥付には、この日付があります。親の代から東京の下町に生まれ育った私には、それは亡父が生き残った東京大空襲の日付です。一九四五年三月十日。
 それから六十六年後の三月十日、うちの近くにある空襲犠牲者を慰霊するお地蔵様のお堂には、供花が溢れていました。私もお参りに行きました。当時は父もまだ健在で、一緒に夕食をとったとき、また空襲の記憶を話し出しました。前日の九日に珍しい小豆の配給があったので、家族で小豆ご飯を食べたこと。火災旋風で、畳が縦になって(立った状態で)燃えながら飛んできたこと。空襲の一夜が明けると、深川の町を東西に横切って流れる小名木川に、多くの犠牲者の遺体が積み重なっていたこと。
 私にとっては子供のころから「耳たこ」の話でしたが、お父さんもいつまで元気で語れるかわからないし、オーラルヒストリーとして貴重だ──なんて思いつつ、耳を傾けました。
 その翌日、三月十一日の午後二時四十六分、東日本大震災が発生しました。
 東日本の太平洋岸を襲う津波の映像に、テレビの前で、私たちは声を吞むことしかできませんでした。日が暮れると、停電で闇に沈む三陸地方に、津波が引き起こした大火災の炎だけが赤々として、それを見つめて父はまたこう言いました。あの空襲のときと同じだ、と。
 文庫の解説を、こんな私事から始めてしまって恐縮なのですが、それは、私にとって、本書があの震災当時の記憶と分かちがたく繫がっているからなのです。
 私が住んでいたあたりでは大きなインフラの被害はなく、液状化現象も起こらなかったのですが、頻繁な余震と相次ぐ緊急地震速報に、恐ろしいものに追い立てられているかのような心地でした。どうにか余震が落ち着いてきたかと思ったら福島第一原子力発電所の事故が発生、飛び交う様々な情報に、さらに追い詰められてゆくようでした。
 本当に恐ろしい事態になっている被災地に比べたら、東京なんて吞気なものだ。びくびくしていたら恥ずかしい。自分にそう言い聞かせてはいましたが、夜になり、まわりが静かになると、思い出したように鳴り響く緊急地震速報にまた飛び上がり、眠ることができませんでした。
 それで、私は本書を読みました。
 うちでいちばん頑丈な家具は、地元の家具屋さんに注文して作ってもらった私の仕事机です。小さめのシングルベッドぐらいのサイズがあるので、その下にマットレスと布団を敷き、スタンドと懐中電灯を枕元に置いて、毛布をかぶる。これなら、大きな余震が来ても安心でした。当時うちにいた年寄り猫も、毎晩毛布の上に丸くなりに来ました。
 外の世界は、明日どうなるかもわからない状態でした。福島の原発が一基でも爆発したら、東京の東側には人が住めなくなるという噂も流れていました。私は年老いた両親をどこかへ避難させてあげられるあてもなく、自分一人の身さえ持て余して、不安でたまりませんでした。
 でも、机の下に入って、老猫と身体を温め合いながら本書を読んでいると、そんな現実が遠のきました。何も変わらないけれど、ひととき、遠のきました。私は慰められました。慰められて、翌朝また起き、現実に目を向ける気力を養うこともできました。
 これがフィクションの力なんだ。
 心の底からそう思ったのを、今でも忘れることができません。

京極夏彦『文庫版 オジいサン』(角川文庫)
京極夏彦『文庫版 オジいサン』(角川文庫)

 まだ就学前かもしれない小さな男の子に、
 ──オジいサン。
 と呼びかけられ、公園のベンチに忘れ物をしていることを教えてもらった主人公・益子徳一さん。本書は、この徳一さんが慎ましく生活している様を、淡々と、ただ淡々と綴った小説です。
 徳一さんは七十二歳で、定年退職後の一人暮らし(独居老人という言葉は一発で意味がわかって便利ですが、何となく失礼な気がするのは私だけでしょうか)。全編、徳一さん視点で語られるお話なので、必然的に大半がモノローグです。読み進むうちに、私たち読者には徳一さんの声が聞こえてきますが、作中で徳一さんが声を出して誰かと会話するシーンはとても少ない。あらゆる意味で物静かな小説なのです。
 本書のいちばんユニークな点は、短編連作的にまとめられ、並べられている七つのエピソードが、言葉の真の意味で「時系列」であること。それも分刻みなんですよ。「ストーリーの都合による時間のジャンプ」という技法が、(徳一さんが就寝し、それによって日付が変わるところだけは別として)徹底的に排除されている。
 ですから私たち読者は、徳一さんが起き抜けに布団の上でぼんやり考え事したり、スーパーに買い物に行ったり、買ってきたソーセージをどうやって食べようかと思案したりするその一挙手一投足を、ずうっと見守ることになります。
 これが面白い。
 単行本初読のとき、最初のうちは、
「心静かに読める老境小説なんだろう」
 と思っていました。だからこそ、余震が怖くて机の下で読むために選んだわけです。
 ところが、蓋を開けてみたら大違い。私は何度もふき出してしまいました。その後もしばしば読み返していますので、耐性がついてきて、さすがに大笑いはしなくなりましたが、やっぱり好きなシーンではニヤニヤしてしまいます。
 なぜか面白い。
 徳一さんだけじゃなく、田中電気の二代目とか、肉屋の権藤さんとか、徳一さんの同級生たち(物故者もいます)とか、笹山眼鏡とか、石川さゆりのカセットテープとか、消し方がわからない留守番電話とか、「地デジ」とか、若者が出入り口にたむろしているコンビニとか。
 すごく面白い。
 二〇一一年の三月、現実の不安から逃れて本書に慰められながら、でも私はいっそう強く現実のことを思っていました。
 この小説に描かれているような日常が続くのが、どれほど尊いことかと思っていました。
 その思いは、今現在、仕事机の下ではなく、仕事机の上に本書を置いてページをめくっても、いっそう強く胸にこみあげてきます。
 京極夏彦さんのお仕事のなかでは、もっとも「やわらかく、優しい」タイプの作品であるこの益子徳一さんの日常記。私はずっと続編を待望しているのですが、なかなかかないません。解説者の特権で、ここでもう一度訴えさせてもらいます。続きが読みたい。アイデアだけちらりと伺った限りでは、続編では徳一さんが動物園に行くとか。ぜひとも読みたい! お願いいたします。
 このお話のなかの徳一さんは、仮に十冊以上シリーズが続いたとしても、七十二歳のままでしょう。私は徳一さんのモノローグと考え事を読み続け、やがて徳一さんの歳に追いついて、追い越していきたい。そして公園のベンチに忘れ物をして、どこかの可愛らしいお子さんに、
 ──オバあサン。
 と声をかけられるようになりたいと思うのです。

▼京極夏彦『文庫版 オジいサン』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321903000421/

KADOKAWA カドブン
2020年3月17日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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