黒川能 船曳由美著 集英社

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黒川能 1964年、黒川村の記憶

『黒川能 1964年、黒川村の記憶』

著者
船曳 由美 [著]
出版社
集英社
ジャンル
芸術・生活/演劇・映画
ISBN
9784087890136
発売日
2020/01/07
価格
3,960円(税込)

書籍情報:openBD

黒川能 船曳由美著 集英社

[レビュアー] 栩木伸明(アイルランド文学者・早稲田大教授)

 黒川能は山形県鶴岡市の農村に室町時代から伝わる芸能である。五流の能とは異なる発展を遂げ、毎年2月1日から翌日にかけて春迎えの神事能として、春日神社の神に捧(ささ)げられる。

 王祇祭(おうぎさい)と呼ばれるその神事では、上座と下座の2箇所の屋敷に王祇様と呼ばれる神を迎え、村人たちが夜を徹して能と狂言を演じる。神とともに芸能と飲食を楽しみながら、人々は新しい年を迎えるのだ。2日は春日神社の拝殿に場所を移し、両座が神前で能を競演する。

 現在、王祇祭は一般の参観を歓迎しているが、かつては取材を謝絶していた。黒川能が門戸を開く契機となったのは約半世紀前、雑誌「太陽」に掲載された特集「雪国の秘事能」である。1964年11月にはじめて黒川村へ入り、翌年の王祇祭をへて、秋にいたるまでの約1年間、村の暮らしを丹念に記録しようとした取材者の真摯(しんし)な姿勢が村人達(たち)の信頼を勝ち取ったのだ。

 本書には、オリンピックと東海道新幹線開業に沸いた時代に黒川能を支えていた村人の群像と王祇祭の全貌(ぜんぼう)が語られている。著者は大学で社会学を学び、平凡社に入社し、「太陽」の編集部に配属された若い編集者だった。黒川村に知己が多い詩人真壁仁から紹介状をもらい、写真家薗部澄とともに村を初めて訪問するくだりなど、波瀾(はらん)に富んだ小説を読む気分にさせる。

 とはいえ、生動する文章で回顧される事実関係はきわめて正確だ。関係者達に綿密な裏付けを取った内容が血の通った語りに結実しているのだ。本書は精緻(せいち)な民俗誌であるとともに、懇切な入門書としても気軽に読める。

 何を隠そう、かく言うぼく自身、本書を携えて王祇祭を見てきたところ。3度目の訪問である。36時間ほど続けざまに演能と神事を見学し、厳粛と愉楽が矛盾しない世界を体験した。徹夜明けに春日神社で能の競演を見たとき、冬の最中に花見をしたような気がした。気高い華やぎの余韻が今も身の内にたゆたっている。

読売新聞
2020年3月16日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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