「死ぬまで一回たりともまずいものは食いたくない」が口癖だった作家・阿川弘之の最後の晩餐とは?

レビュー

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アガワ家の危ない食卓

『アガワ家の危ない食卓』

著者
阿川 佐和子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784104655229
発売日
2020/03/25
価格
1,485円(税込)

書籍情報:openBD

娘が注いだビールの味

[レビュアー] 太田和彦


阿川弘之さんと阿川佐和子さん(中央)

太田和彦・評「娘が注いだビールの味」

阿川佐和子さんが、作家の父・阿川弘之との怒涛の食卓風景を包み隠さず綴った『アガワ家の危ない食卓』を刊行。居酒屋研究家の太田和彦さんが佐和子さんのビールの注ぎ方にも着目しながら、作品の魅力を語った。

 ***

 著者の軽快な食エッセイはすでに『残るは食欲』『魔女のスープ 残るは食欲』『娘の味 残るは食欲』(いずれも新潮文庫)がある。この新著はおもに作家・阿川弘之を父に持った家の食卓風景について書かれた。

〈二〇一五年に他界した父の口癖は、「死ぬまであと何回飯が食えるかと思うと、一回たりともまずいものは食いたくない」であった。たまたま自分の気に入らない食事に出くわした日には、「一回、損した。どうしてくれる!」と本気で憤怒したものだ〉。一方〈旨いもんを食いに行こう〉は日常の台詞だった。

 著者が中学生のとき、留守の母に替わり料理本を参考に六時間かけてつくった〈東玻肉〉を夕食に出すと「今日は佐和子が作ってくれたのか」と喜んだ一口めの反応は「よし、明日はなんか旨いもん、食いにいこう」で、はっきり「まずい」と言わない気遣いをされた情けなさ、わかります。表現者として嘘は言えない批評精神(?)、しかしあまり正確に指摘してもいけない親ごころ、の相克ですか。

 作家の父は神経質で、娘佐和子はいつもびくびくしていたと書く。「気難しい父」はいかにも昭和の家庭だが、著者の自在な筆致は、びくびくしながらも愛情を持って気難しさを客観視していたのではと、その父に親近感もおぼえてゆく。

 膝を打ったのは、妹尾河童氏から教わったと書くビールの注ぎ方で、グラスに注ぎながら瓶をどんどん高く上げ「カニ泡」を作ってしばらく待ち、ビールと泡が四対一になったら今度はグラスの縁から……と延々七行にわたる詳細な文は毎夜私が実行していることだ。

〈この方法で注いでみせたら父はたいそう喜んだ。以来、父はビールを飲もうとするたび、私を呼びつけるようになった。/「おい、サワコ、ビールを注いでくれ。お前に注いでもらうと旨いんだ。お前は本当に上手だなあ」/生涯で、父が私のすることを褒めてくれた回数は限りなく少ないけれど、私が作った切り干し大根と、私が注ぐビールに関してはいつも無条件に褒めてくれた〉と述懐する。娘をあまり褒めない「昭和の父」が、注がれたビールに目を細める姿はほほえましい。

 日常の癖「ラップ二度使い」は私もそうで大いに賛同。割り箸を捨てない、爪楊枝の居心地のわるさ、空き瓶を捨てられない〈愚瓶ども〉も同じ。清冽な著者はたいへんお若いと思っていたが、昭和の家庭の育ちだった。

 作家を父にもつ家庭については、本誌「波」の昨年十二、今年一月号に載った、檀一雄長女・檀ふみ×新田次郎次男・藤原正彦×阿川弘之長女・阿川佐和子による「文士の子ども被害者の会」公開鼎談が、気うるさい職業の父を持った苦労を披露しながら、いつの間にか自分も文を書くようになっている感懐がおもしろかった。

 父が九十歳を過ぎて老人病院に入り、頼まれて好物の〈かつお節弁当〉を運んだが、パックのかつお節はだめと言われ、日本橋の「にんべん」でいちばん高価な鰹節を買い、きれいに削って運ぶと喜んだ。しかし合わせたチューブわさびがダメ出しされ、その次は本山葵のおろし立てになった。亡くなる二日前、ほとんど食べる力がなくなってきて、好物の〈とうもろこしの天ぷら〉を「食べてみますか?」と口に運ぶと、まもなく吐き出し、一言「まずい」と言ったのが父の最期の言葉だったと書く。

 母上は、一日中家に居る居職の夫の食生活に六十年間、細心の日々で、娘はそれを見て「佐和子もやるー!」と手伝うようになった。母は夫が亡くなると重荷を解かれたか台所に立たなくなり、ボケるのを心配して〈お母さん得意のクリームコロッケ、作って〉とねだるが〈あれ、めんどくさいでしょ、私は別に食べたくない〉と断られてしまう。夫には作るけれど娘には作らないんだ。

 著者は三年前に結婚され、支度する食事に夫君はあまり辛口は言わず、優しく褒めてくれるそうだ。食にうるさかった直言居士の父はこの妻と娘を得て幸せな生涯だっただろう。父に閉口しながらもその率直さを愛した文がいい。食を切り口に「頑固な昭和の父」を書いた一冊となった。

新潮社 波
2020年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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