「当たり前の日常を生きる人たちの心を動かす小説を届けたい」妻のがん検診が小説家への道を繋いだ新人作家の強い想い

レビュー

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約束の果て

『約束の果て』

著者
高丘 哲次 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103532118
発売日
2020/03/25
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

留守番電話

[レビュアー] 高丘哲次(作家)


『約束の果て―黒と紫の国―』の著者・高丘哲次さん

高丘哲次・エッセイ「留守番電話」

『後宮小説』『十二国記』の再来を予感させるとの声が上がる『約束の果て―黒と紫の国―』の著者・高丘哲次さんが、自らの体験と小説に込める強い想いを綴ったエッセイを紹介する。

 ***

 妻が癌であるという診断を受けたのは、二〇一八年九月二十四日のことだった。

 不妊治療のためレディースクリニックで検査を受けた際、腹部に大きな腫瘍が見つかったのだ。同席していた私は、医師の口から出たあまりに予想外な言葉に、質問ひとつ返すことも出来なかった。

 医師は簡潔に説明を済ませると、その場で自宅近くの総合病院に連絡を入れてくれ、精密検査の日取りが決まった。

 診察室を出た直後に妻が、

「私もがん保険にはいってたかな?」と小声で訊いてきたことを覚えている。

 精密検査の日、妻はひとりで病院へと向かった。

 私は、いつものように出勤した。翌日に出る検査結果を聞くため休暇を申請し、予定されていた打ち合わせを先延ばしにした。さも忙しそうにスケジュール帳をめくる同僚の手付きが目について、むしょうに腹がたった。

 夕方、携帯電話に妻からのメッセージが届いた。

「会計が混んでいてしばらくかかりそうだから、お弁当を買って帰るね」

 私は、何と返信して良いか分からず、

「早めに帰るよ」とだけ伝えた。

 その日の夜、寝床につくと常夜灯にぼんやりと照らされた平板な天井が、やけに近く感じた。手を伸ばせば、指先で簡単に突き破れそうなほどに。何も無い空間を探っていると、いつの間にか朝になっていた。

 頭に鈍い痛みを抱え、妻と二人で病院へと向かった。

 診察室に入ると、若い医師がじっとモニターを見つめていた。私達の方へ視線を移すなり、前置きもなくさらりと言った。

「癌ではないようですね」

 腫瘍は大きいが悪性ではないため、手術はせずに経過を観察してゆけば良いとのことだった。ほっとしたのと同時に、強烈な眠気が襲ってきた。

 だが、認められていた休暇は午前中だけだったので、会計を待つ妻を残して病院を後にした。

 そして、下り電車を待つ駅のホームでのこと。

 携帯電話が鳴った。

 上着のポケットから取り出すと、画面に表示されていたのは見知らぬ番号だった。直感的に、病院からだと思った。妻と一緒だったので、その場では本当の診断結果を伝えることが出来なかったのだと。

 私はコールが止まるまで携帯電話を握りしめ、心が落ち着くのを待ってから、留守番電話を再生した。

 録音されていたのは、日本ファンタジーノベル大賞の最終候補に残ったことを知らせる内容だった。

 このような実体験を紹介したのは、事実は小説よりも奇なり、という常套句を導きたいからではない。実際、この年は最終候補止まりだった。小話としてなら、もう少し強いオチが欲しいところである。

 ただ、この経験がなければ、私は小説家になることが出来なかったと思っている。妻が癌と診断されてからの数日間で、現実は異なった姿を見せるようになり、ひいては創作への取り組み方も変わった。

 人生とは、もとより奇妙なものなのだろう。誰しもが、理不尽とも思える消息盈虚に翻弄され、それでも日々を積み重ねている。私たちが辿る道には、好むと好まざるとに関わらず、驚きが満ちている。

 ならば、旅の友である小説はどうあるべきか。

 少しくらい風変わりな物語では、きっと無聊をなぐさめる役にも立ちはしない。自分だけの特別な物語を胸に秘めながら、当たり前の日常を生きる人たちの心を動かすためには、いかなる小説を届ければ良いのか。

 結局のところ正解など無いのだと思いますが、そのことを自分なりに考え抜いた末に書き上げたのが、日本ファンタジーノベル大賞2019受賞作の『約束の果て 黒と紫の国』という小説です。ぜひ、書店でお手にとっていただければ幸いです。

新潮社 波
2020年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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