極限状態での殺人が招く悲劇と謎――第二次世界大戦中のビルマを舞台に描く本格ミステリ『いくさの底』

レビュー

5
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いくさの底

『いくさの底』

著者
古処 誠二 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041083994
発売日
2020/01/23
価格
968円(税込)

書籍情報:openBD

極限状態での殺人が招く悲劇と謎――第二次世界大戦中のビルマを舞台に描く本格ミステリ『いくさの底』

[レビュアー] 千街晶之(文芸評論家・ミステリ評論家)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説者:千街 晶之 / ミステリ評論家)

 映画『殺人狂時代』における「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」というチャールズ・チャップリンの台詞が象徴するように、戦争と平時での殺人事件とは、人を殺めるという行為が正当化されるか否かにおいて対極の位置におかれることが多い。にもかかわらず(あるいは、そうであるからこそ)、戦争は時として、個人的行為の極みである殺人を扱うミステリの題材にもなり得る。G・K・チェスタトン『ブラウン神父の童心』(一九一一年)所収の短篇「折れた剣」をはじめとして、数多くの作例が存在している。人間が駒として扱われる戦争の不条理な状況下においてこそ、鬱屈した個人の情念は黒い輝きを放つのだから。

 古処誠二の長篇小説『いくさの底』(二○一七年八月、KADOKAWAより刊行。初出は|《小説すばる》二○一六年十一月号)は、その系譜を代表する歴史的な一作だ。本書は、太平洋戦争中のビルマ(ミャンマー)を舞台にした迫真の戦争小説であり、同時に極めて高水準な本格ミステリでもある。

古処誠二『いくさの底』(角川文庫)
古処誠二『いくさの底』(角川文庫)

 著者は一九七○年生まれながら戦争小説の第一人者となりおおせたが、その作風の特色は、歴史のその後を知る現代人の特権的な視点や、書き手のイデオロギーに基づく善悪の判断を排除した点にある。史料に即した状況描写のディテールを徹底的に重視し、主人公の周辺以外で何が起きているかは極力描かず、登場人物に戦時中の日本人ならではの思考を展開させることで、物語は現在進行形で戦争を体験しているような迫真性を帯びる。本書においても、視点人物である依井の周辺で起きている小状況が語られるだけであり、戦争の大状況が解説されるわけではない。そのため、作中人物にとっては周知の事実なので読者に説明されない前提について、ここで簡単に触れておこう。開巻早々、「ビルマ戡定」という言葉が出てくる。戡定なる単語を日常で目にしたことのある読者はまずいない筈だが、これは平定と同義であり、この場合は、一九四一年、太平洋戦争開戦とほぼ同時に日本軍が援蔣ルート(日中戦争において、中華民国を率いる蔣介石政府を連合軍側が軍事的に援助するために用いた輸送路)の遮断などを目的としてビルマに攻め入り、たちまち全土を制圧したことを指す。ビルマは一九世紀末からイギリスに植民地支配されていたため、戦勝後のビルマ独立を保証した日本軍を歓迎する国民も多かったのだ(一九四三年八月、独立運動家バー・モウを元首とするビルマ国が成立する)。しかし、一旦退却した連合軍の巻き返しが、一九四三年末から本格的に始まる。一九四四年、日本軍はイギリス軍の拠点たるインドの都市インパールを攻略して反撃を試みるも(インパール作戦)、惨憺たる失敗に終わり、一九四五年の終戦までにビルマは連合軍によってほぼ奪還されることになる。

 このビルマ戦線というと、「史上最悪の作戦」と称されるインパール作戦の無謀さや悲惨な過程がまず思い浮かぶ。しかし『いくさの底』という小説には、激しい戦闘シーンはないし、大量の餓死者が出るような状況もない。年代は明記されてはいないものの、作中の記述から一九四三年(昭和一八年)の一月が背景と推測される。まだ日本軍が優勢を保っていた頃の話だということを念頭に置いておきたい。

 ビルマ北部シャン州のヤムオイという山村に、賀川少尉率いる警備隊がやってきた。賀川は以前にもこの地に駐屯したことがあり、村長らとも顔馴染である。ところが最初の夜、賀川は何者かに殺害される。動揺を恐れた警備隊側は、賀川の死を伏せ、彼がマラリアに罹患したと村民たちに説明するが、それがかえって疑心暗鬼を生んでしまう。連絡を受けた連隊本部から、事件の調査と事態収拾のために連隊副官がやってきたが……。

 舞台となるヤムオイ村は、中国側の重慶軍に狙われている状態とはいえ、現状は凪のような状態にあり、住民たちも日本軍に一見友好的である。しかし、賀川の死という変事が起こることで、その人間関係は揺らぎ、崩壊してゆく。殺人者は敵である重慶軍かも知れないし、村民の中に何らかの動機を持つ者が潜んでいるのかも知れない。いや、同じ日本軍内部にいる可能性もあるのだ。

 視点人物の依井は通訳を務める商社員であり、要するに民間人なのだが、立場上は将校待遇の軍属である。そんな彼が見聞する、あからさまな他殺を隠蔽してしまう軍隊という組織の奇怪な論理や、事態の進展につれて不穏な緊迫感を増してゆく村の空気が、著者ならではの抑えた筆致で的確に綴られてゆく。

 戦争を扱いつつ戦闘の描写をメインにはしない──という発想は、戦中も戦後も知らない世代の作家には時折見られる。近年のミステリ小説で言えば、深緑野分『戦場のコックたち』(二○一五年)や山本巧次『軍艦探偵』(二○一八年)は、戦場という非日常空間を舞台にしつつ、どちらも前半は「日常の謎」パターンのミステリの趣向を取り入れている。

 著者が本書で試みたことは、それらともまた異なる。人間同士の命のやりとりが行われる軍隊という組織で、戦闘とは無関係に、ある特定の人間の命を奪わなければならなかった理由とは何か。そののっぴきならない必然性こそが本書の要である。この場所、このタイミングでしか起こり得なかった殺人事件──。

 著者は今では戦争小説の書き手として認識されているけれども、第十四回メフィスト賞を受賞したデビュー作『UNKNOWN』(二○○○年。文庫化に際して『アンノウン』と改題)は自衛隊を舞台にした本格ミステリであり、大地震で地下駐車場に閉じ込められた高校生たちと教師が変死事件に直面する第二長篇『少年たちの密室』(二○○○年。文庫化に際して『フラグメント』と改題)や、デビュー作と同じシリーズである『未完成』(二○○一年。文庫化に際して『アンフィニッシュト』と改題)も謎解きを軸としている。

 こうして本格ミステリ作家として登場した著者が太平洋戦争を題材に選ぶようになったのは、第四作『ルール』(二○○二年)以降である。しかし、第三作までのように前面化はされていないにせよ、戦争小説に転じてからの作品の多くにも、やはりミステリの要素が含まれている。特に、戦地における人間の行動の謎を扱う際、著者のミステリ的な小説作法はただならぬ冴えを示す。例えば本書のひとつ前の長篇である『中尉』(二○一四年)は、戦争末期のビルマを舞台に、伊与田という軍医中尉が拉致された事件を扱っているけれども、軸となるのは拉致の真相そのものより、一見怠惰で戦地には不向きと思える伊与田が、何故そのような人物になったのかという謎である。つまり、仮に殺人や拉致といったあからさまな犯罪ではなくとも、ある状況に運命的に投げ込まれてしまった人間の謎を取り扱うことで、戦地が舞台のミステリは成立し得るのである。

 本書は著者が太平洋戦争を描いた小説中、最もエンタテインメント度とミステリ度の高い作品となっている。確かにここには殺人があり、その隠蔽があり、動機の意外性も充分だが、それらは犯人や被害者、そして他の登場人物たちの人間像を鮮やかに浮かび上がらせる効果を持つ。その意味で本書は著者の一連の戦争小説と同じ系譜に属するけれども、一方で『フラグメント』における殺人のタイミング面の必然性や『アンフィニッシュト』における自衛隊員と基地がある島の住民の関係など、初期作品に見られた要素もまた、より磨かれたかたちで継承されている。その意味で本書こそは、デビュー以降の著者の作風の集大成にほかならない。

 本書は、第七十一回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)と第七十一回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)をダブル受賞した。後者では、選考委員たちによって「書かれている人物と設定はごく狭い範囲に限定されている。が、戦争という極限状況を通しての人間を見る目に、この作者独自の奥行きと広がりがあるので、籠り感はない」(垣根涼介)、「これだけの情報を盛り込みながら、わずか二百ページとコンパクトに収まっている理由の一つは、言葉から無駄がしっかり取り除かれていることにあるのだろう。この一点の素晴らしさを買い、授賞に賛同した」(長岡弘樹)、「本作は戦争文学と本格ミステリーが奇跡的な融合を果たした異色の傑作で、戦争を賛美も断罪もしないが、真相がわかった時に立ち騰ってくる哀しみは深く心を打つ。まるでその場に居合わせたかのような手触りに満ちた、虚飾を徹底的に排した文章も一級品であると感じた」(深水黎一郎)、「『いくさの底』はミステリー的なプロットやトリックが五作の中で突出していた。加えて太平洋戦争というと対アメリカがすぐに浮かぶが、それ以前の、インドシナでの同じアジア人たちが入り乱れた戦いという状況が、トリックに上手く活かされている」(麻耶雄嵩)といった点が評価された。また、本書は第十八回本格ミステリ大賞(本格ミステリ作家クラブ会員の投票で決定される)にもノミネートされ、大賞受賞作の今村昌弘『屍人荘の殺人』と僅か二票差という大健闘を示した。戦争小説と本格ミステリの融合という著者の創作意図は見事に成功を収め、文壇でも認められたことになる。

 そして著者の現時点での最新長篇『生き残り』(二○一八年)も、ビルマを舞台とした軍隊ミステリである。ミステリによって戦争の本質を描こうとする著者の試みは、まさに現在進行中の注目すべき文学的実験なのだ。

▼古処誠二『いくさの底』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321903000340/

KADOKAWA カドブン
2020年3月29日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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