『夏の災厄』解説:海堂尊「本書はパンデミックが蔓延しつつある現代社会における予言書的な寓話だ!」

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夏の災厄

『夏の災厄』

著者
篠田, 節子, 1955-
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784041028124
価格
924円(税込)

書籍情報:openBD

『夏の災厄』解説:海堂尊「本書はパンデミックが蔓延しつつある現代社会における予言書的な寓話だ!」

[レビュアー] 海堂尊(作家)

コロナウイルスの脅威は未だ収まる兆しを見せません。この未曽有の危機に立ち向かうにはどうすればよいのか――。いまから25年前に発表された篠田節子さんの『夏の災厄』は、未知の感染症をテーマにしたパンデミック・ミステリです。前例の無い事態に後手に回る行政、買い占めに走る住民たち、広がる混乱と疑心暗鬼……。今日の状況を予見しただけでなく、この災厄を乗り越えるためのヒントも提示する本作。海堂尊さんによる解説を特別公開!

 ◆ ◆ ◆

 篠田節子は、激情を透徹した物語に封じ込める。

 篠田節子先生は、作家生活25周年を迎える大先輩で作品は45作に達する。文庫化も多く解説者も錚々たる方たちが名を連ねている。というわけで篠田作品に関して系譜化、解析するのは私の役目ではないと勝手に判断した。というか、そう判断せざるを得ない。
 なので私は、篠田節子さんの、作家としてのたたずまいと本作の印象論について述べようと思う。
 そう言いながらも実は私は篠田さんのあまりいい読者ではなく、既読作品は10冊程度である。しかし書評家でない私にとって同一作家の10冊というのは多い。私が好んで読む作品の基準は、「とにかく面白いと思える作品」だから、篠田作品が面白いことは太鼓判を押す。
 篠田節子という作家をひと言で言い表すのは難しい。ホラー作家かと思えばSF作家でもあり、あるときは恋愛小説家、また社会派作家でもある。本作『夏の災厄』と直木賞受賞作『女たちのジハード』はいずれもリーダビリティの高い娯楽作品であるが、この2作を同時に生み出せる感性は凡人には理解し難い。最近はそうした分裂傾向に更に磨きがかかり、昨年2014年に刊行されたのは老親の介護やケアに悩まされる女性群像『長女たち』(新潮社)と最先端ビジネスの暗部をリアルに抉りだした『インドクリスタル』(角川書店)というのだから途方にくれてしまう。だがそれらの作品を通読すると、どの作品も篠田作品だと読者に伝わってくるから不思議だ。どうしてそんなことが可能なのか、この文庫解説依頼を受けたのをきっかけにつらつら考えてみたところ、自分なりに納得できる視点が見つかったので列記してみよう。

①文体が端正である
 篠田作品は文章が必要十分・正確無比である。医学論文としても成立しそうな科学的正確性を有する一方、正確を期すると文章は往々にして冗長になりやすい。ところが篠田さんの文章は短い上に上品な色気が漂っている。これは情報を正確に把握した上でそこから相手に伝わる印象を吟味しながら執筆するという、相手に対する配慮が行き届いている証しではないかと思う。通常、この文章は「読者に対する」と表現すべきだが、篠田さんの口調は「読者」というよりも「目の前の話し相手」に対する配慮であるように感じられる。

② 登場人物を誰も切り捨てない
 登場人物に血が通っている。各々が主義主張を持ち、同時に他人にも主張があることを容認し、限られた世界の中でできるだけのことをしようと悪戦苦闘する。本作で言えば昭川市保健センターの正職員で小市民的な小役人である小西、その上司で波風が立つことを極度に嫌う永井、腹の据わった肝っ玉母さんの年配看護師・堂元房代、マッドドクターの気配漂う辰巳秋水、窓口業務のいい加減で女にだらしがないというウワサの事務員・青柳、学生運動の闘士でもある旭診療所の鵜川医師といった、一癖も二癖もある登場人物が最初の40ページの自然な流れで顔見せし、次々に絡み合って物語を推進していく。物語が進むにつれて、そんな彼らが多様な表情を見せ読者をあっと言わせる。このあたりの展開の妙についてはいくらでも書けるが、読者の邪魔をしてはならないので思わせぶりな筆で抑えておこう。(うぐぐ、書きたい……特に青柳について……)。
 彼らが多面体の表情を見せるのは、人間は七色の虹を生み出すプリズムのようなものだ、という認識を篠田さんが持ち合わせている故だと思われる。

③舞台の二重性と日常の異次元化
 篠田作品では舞台設定に二重性が多用される。『夏の災厄』でも埼玉県の昭川市という地方の小都市に舞台が限定されているかと思いきや、突然物語がインドネシアのブンギ島という未開の島へとジャンプする。この二重性を成立させることは技術的に難しいが、篠田さんの筆は軽々と時空を超越する。閉塞感漂う地方都市にいたと思ったら次のページでは熱帯の小島に連れ去られる。これも著者の正確かつ必要十分な描写によって担保される荒技である。
 そうした二重性で発現される心象風景の本質とは何か。異世界に行き未知の体験をして自分の世界に帰ってくると、実は元の世界もそうした異次元世界のひとつに過ぎなかったということを追体験できるのである。「異世界との二重展開による日常生活の異次元化」とも言うべきこうした手法(今、私が勝手に命名した)は、篠田作品における基本構造である。

④ディテールの深度と精度
 行政批判やメディア批判は、現代社会を描くための必須のディテールである。ただしそこが生煮えだと作品は陳腐化する。篠田作品がそうした陳腐化を乗り越え、現代社会に対する冷徹な視線を普遍化することに成功している理由は、文体が端正であることに加え、自身が持ち合わせているノーブルだが確固たる批判精神が発露しているためだ。ただしそれだけでも普遍化には一歩届かない。最後に必要な一匙は、そうした自分の意見すら相対的なものであり、正しいかどうか定かではなく、ひとつの立場にすぎないという、突き放した視線である。
 一文を引用してみよう。
「市内で伝染病が発生しているのだ。それも二十数年ぶりの流行で、しかもとんでもない悪性の病気であるかもしれないのだ。
にもかかわらず、だれも迅速な対処ができない。前例がない。マニュアルがない。昔の原議もない。しかし関係法令だけは、厳然としてある。」(159頁)
 ここには作者の批判精神が横溢している。しかし直接的には現実を描写しているだけである。現実を見つめながら自分の怒りの存在を認識し相対化し、普遍化する。高度な技巧によって描写されるシンプルな激情。それが篠田作品の真骨頂なのだ。

 本作『夏の災厄』は作品を生み出した作者同様、多面体の顔を持つ小説である。未知の疾病に関するバイオミステリー、職業人の矜恃を描いたビジネス小説、医療現場の矛盾と医療行政の蒙昧さを指摘した医療小説、高度に発展した文明の陥穽を描出した社会派小説、地域社会が災厄に襲われた際の群衆劇としてのパニック小説。どれもこの小説の一面を表してはいるが、その言葉に代表させると何かがこぼれ落ちてしまう。というわけで多面体の小説と言うしかないが、別の角度から表現すれば「息もつかせず一気読みの極上のエンターテインメント小説」と逃げるのが一番ふさわしいかもしれない。
 とにかくこの作品を何らかの枠に押し込むことは陳腐で無意味なことだ。
 さて、本作のテーマでもある、感染症に関連する社会情勢についても触れておこう。
 2010年代は後世の歴史家からはパンデミック・ディケイドと呼ばれることになるだろう。鳥インフルエンザ、新型インフルエンザ、デング熱など日本を騒がせた感染症に加え2015年現在、日本には幸い未上陸であるエボラ出血熱など、世界的な感染症が巷の話題にならない日はない。これは航空機網が高度に発達した現代に出現した新たな状況である。本来なら致死的であるが故にエピデミック(流行)状態に留まるはずのエボラ出血熱がパンデミック(汎発流行)まで広がったのは、移動技術の進歩があったためなのは間違いない。正確に言えば本作はパンデミックではなく一歩手前のエピデミックレベルに収まっている。ただしエピデミックはパンデミック予備軍なので、常にパンデミックの影をちらつかせながら物語はスリリングに展開していく。
 本作が刊行されたのは1995年だが、ちょうど20年後の現在であればまた違った展開になったと思われる部分もある。そのひとつはネットによる情報流通の迅速化・マス化である。ネットでの展開がないことは時代を感じさせる。だからと言って『夏の災厄』は時代遅れの物語では決してない。パンデミックが蔓延しつつある現代社会における予言書的な寓話という意味では、むしろ現代でこそ必読の書なのかもしれない。
 私は医師なので、ここに書かれた医療現場が大変リアルに書けていることに感心させられた。
 2012年、社団法人日本医師会が主催し新潮社が協力して「日本医療小説大賞」が創設された。私は2014年、15年の2年間、本賞の選考委員を務めたが、篠田さんは開始当初からの選考委員である。作風と見識からいって適材適所の人選だったが、懇親会で『夏の災厄』の話に触れる機会があった。よくここまで内実を調べましたね、と感心して言った時の篠田さんのいたずらっぽい笑顔が印象的だった。
「実は私、市役所でそういう部署にいたんだよね」
 市役所勤務ということは伺っていたが部署までは存じ上げなかったため、少々とんちんかんな賞賛になってしまったが、そうした部署にいても医学的に正確な記述ができるようになるわけではないことは、作中の保健センターの事務員、小西や青柳の描写からも明らかである。したがって私の賞賛は決して的外れではなかったのだと自己弁護しておこう。
 だが、篠田さんのその言葉を耳にした時に、篠田節子という作家の謎の一端が解けた気がした。
 篠田節子は現在、自分の存在する世界に丹念な愛着と強い関心を持ち、その世界で起こったことを純化して物語として紡ぎ出す。そんな姿勢を持ち続けられるのは、篠田さんがその胸に水晶のように透徹した、揺るぎない存在(モノ)を抱き続けている作家であるからに他ならない。激情を透徹した普遍の物語に封じ込める。本作はそんな篠田作品の中でも象徴的な一作である。
 端正な文章に騙されてはいけない。篠田節子は激情の作家なのだ。

(2015年1月)

『夏の災厄』解説:海堂尊「本書はパンデミックが蔓延しつつある現代社会におけ...
『夏の災厄』解説:海堂尊「本書はパンデミックが蔓延しつつある現代社会におけ…

▼篠田節子『夏の災厄』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321411000060/

KADOKAWA カドブン
2020年4月7日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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