『感情教育 上』
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散文詩的な煌めき放つ“失われた青春”
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
【前回の文庫双六】壮大な枝話が面白い大長編の完訳――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/617358
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『レ・ミゼラブル』では脱線部分こそ面白いという北上次郎さんは、ユゴーにとって理想の読者である。一方、脇にそれがちな書き方を批判する向きもあった。刊行直後に読んでかんかんになったのはフローベール。
これまでずっとユゴーを崇め続けてきたのに、何だこの小説は。登場人物はみんなマネキン。ファンティーヌみたいな娼婦、ジャン・ヴァルジャンみたいな徒刑囚がいったいどこにいる。それに脱線や演説の多さは目に余る。「私は憤慨しています!」と1862年、友人への私信で気炎を吐いている。
そんなフローベールの長編『感情教育』は、『レ・ミゼラブル』と何から何まで対照的だ。主人公のフレデリックは、職に就く必要もなく、パリで遊民生活を送りつつ、人妻への報われない恋に胸を焦がし続ける。芸術家を夢見たり、法律家を志したりするが何一つ実らない。人生に対する覇気が根本的に欠けている。
いかにも象徴的なのは、二月革命の描き方だ。ユゴーは『レ・ミゼラブル』で、七月革命に続く六月暴動で奮戦する労働者たちの姿を熱血の筆遣いで活写した。一方、フローベールの主人公は民衆の狂騒を芝居でも眺めるように見物するだけ。行動力のない彼は人生の貴重な時間を無為に浪費していく。
その点をとらえてサマセット・モームは「この主人公は、最後まで納得のいく人物として描かれていず、その面白くないことは、ちょっと類がない」と酷評した(『世界の十大小説』岩波文庫)。でもまさに、それが『感情教育』の魅力でもある。ユゴーの「聖者」ジャン・ヴァルジャンは確かに感動的だ。しかし何の理想も目的も抱けずに漂い続けるフレデリックの失われた青春には、現代の読者にとって他人事でなく共感を誘うものがある。
しかも彼の情けない姿を描くフローベールの文章は皮肉にも、このうえなく研ぎ澄まされ、ときに散文詩のような煌めきを放つのだ。