『絶対猫から動かない』
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コメディでホラーで青春で家族でSFで、つまりこれは、とっても、やっぱり新井素子だ!『絶対猫から動かない』【評者・藤田香織】
[レビュアー] 藤田香織(書評家・評論家)
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(評者:藤田香織 / 書評家)
読み始めてすぐに、ぐぐっと前のめりになった。
やだちょっと(嫌じゃないけど)! いよいよ新井素子が? 書いちゃいますか、こっち系? と2ページ目にしてニヤついてしまった。
物語の幕開け、舞台となるのは西武有楽町線の車内。主要登場人物のひとりである大原夢路が乗車していたその地下鉄が、小竹向原と新桜台の間(新井素子作品ではお馴染みの界隈ですな)で、地震の為、緊急停車する。平日の午後3時すぎ、夢路は幼馴染で親友の冬美と「デート」中だった。地震ということは、もしかするとこのまま何時間も動かない可能性もなくはないわけで、そうなったら「すんごく困る」と言う冬美に、夢路が「旦那さんに連絡しなくていいの?」と聞く場面だ。
というのも、冬美にはこの後、家の事情による予定(孫のお迎え)があることを知っていたからなのだけれど、自分で聞いておきながら、夢路はすぐにその言葉を打ち消す。
「……そんな連絡されたって、会社にいる旦那さんも困るか」
いやもう、これだけでも、あ゛~と「お察し」警報を感知する読者は少なくないはず。どうせねぇー、そんな電話したところで、ですよねぇー。わかるわかる、である。
で、これに対する冬美の返答は、こう。「んー、ちょっとはあのひとにだって困って欲しいものなんだけれどね。早紀(孫ですね)に何かあった時、いつだって、困るのは私に決まっている、それは何とかしたいものだと思っているんだけれどねえ」。うわぁぁ……!
しかも続けて、連絡などしなくても大丈夫だと言うのだけれど、その理由がまた凄い。「神様は、私が困ることしか、しない。あのひとや、あのひとの家族が困ることは絶対にしない。だから、地下鉄は、すぐに動く。じゃないと、私以外のひとが困っちゃうから」。ひぃぃ……!!
不穏だ。冬美が物凄く抑圧された鬱屈を抱いていることが伝わってくる。そうか、「いつだって」なんだ。「決まっている」んだ。ええと、「あのひと」って、夫だよね? 「あのひとの家族」って自分の家族だよね? その距離感、こわっ! こんなことを、イライラカリカリした口調ではなく、のんびりと言うなんて、「今に始まったことじゃない」感満々じゃないか、つらっ! うーん、これは長年唯々諾々と家事や育児(孫含む)をこなしてきた主婦が、残りの人生を自分らしく生きるために立ち上がるパターン!? いいぞいいぞー! 新井素子の超現実的人生小説! キタコレ! 面白そうー! ……と、勝手に予想して興奮したわけです。
ところが。
これがもう、話は全然まったくそうした方向に進まなかったのである。現在56歳になる冬美の、24歳で結婚して、子供ができたら姑に「母親は家にいて子供の面倒をみるの、それが常識」と押し切られて仕事を辞めて、昭和脳な夫に「おまえを養っているのは誰だ」などと時代錯誤なことを言われ、52歳で「お祖母ちゃん」になってみれば、息子夫婦には姑の常識は非常識でしかなく、板挟み生活のなかで夢路と「デート」するという名目でしか自分の時間を確保できないという、これだけで長編小説が描けそうな半生は、あくまでも、どこまでも、「主要登場人物のひとりである大原夢路の幼馴染で親友のバックボーン」でしかないのだ。うぉう、なんという贅沢!
もちろん「主要登場人物」である大原夢路の背景も負けていない。大学卒業後大手出版社に就職し、冬美と同じく24歳で結婚。子供には恵まれなかったものの、「天職」と思えるほど校閲の仕事に勤しんできたのに、両親の介護と看護のために退職。そうこうするうちに大阪に暮らす義母の徘徊が始まり、義父が病に倒れ緊急入院。ひとりっ子同士の結婚のため、介護や看護費用の手もお金ものしかかり「天職」の仕事に戻れる目途は立たず。「あたしは、義父と義母を養わなきゃいけないのだ。いつまで? 判る訳がない」。「好きだったのに、校閲。かえりたいのに、あの仕事に」と、そりゃもうストレス満載。結婚って、嫁って、妻って、出産って、介護って、仕事って、老後って、つまりは人生ってほんとままならない! と読者的共感度抜群、興味津々な半生で、女子の人生迷い道@後半戦的小説のあらゆる要素がガッツリ投入されているのに、こちらも、そういう人物である、という「だけ」の話なのだ。いやもう、とんでもない贅沢!!
他にも。大手企業の関連会社の総務一筋三十余年、氷川稔54歳も、去年定年退職して囲碁三昧な村雨大河61歳も、未経験のバスケ部顧問に任命された、なりたて中学教諭の佐川逸美についても、詳細に人となりが語られていく。どんな悩みがあるのか、どんな楽しみがあるのか、大切にしているものはなにか。地震で止まった地下鉄の、たまたま同じ車両に乗り合わせたそれぞれの「顔」が見えてくる。
けれど、そこは掘らない。いや、掘りすぎない。個々の顔を見せておいて、では、どんな方向へ話は進むのかといえば――。
「戦う」のである。自分の、子供たちの、そして大切な人の命を守るために。「袖振り合うも他生の縁」程度の関係でしかなかったのに、力を合わせ、人の生気を食らう、藁草履と蓑笠姿の人外なるもの……妖怪「三春ちゃん」と!
錯綜する夢と現実、混乱する時制と自意識。結界の決壊。魂のお知り合いなのに、ロマンティックの欠片もない「夢で逢いましょう」。陰陽師かドリームバスターか、え? 呪術師? もしやスピリチュアル系? 本気の“命のやりとり”で、渾身の『だるまさんが転んだ』で、「みぃつけた」。
ねぇマスター、え? また?
振り回されて、揺さぶられて、なのに何度も胸がきゅっとなる。
「最終的に、大人っつーんは、ガキを守るもんだからだよ」
「尊敬なんかしてないから。ただ、本当に、好き、なの」
「人類はね、どっかで、“地球の生物であること”を、やめちゃったの」
きゅっとなった胸が、ぎゅうっとなる。
コメディでホラーで青春で家族でSFで、つまりこれは、とっても、やっぱり新井素子だ! と、再びニヤニヤしてしまった。あぁ本当に、とてつもなく深くて大きい。
読み終えた次の瞬間、長い夢から覚めたような心地になる。そしてきっと、誰もが思うだろう。
生きて行くのだ。自分の胸の中にあるものを、もう一度見つめ直して、それぞれの現実を、今日も、明日も。いつか猫になって、絶対ここから動かない! とにんまり笑えるその日まで。
▼新井素子『絶対猫から動かない』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321907000126/