天国はつまらなくあってほしい

インタビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

しゃもぬまの島

『しゃもぬまの島』

著者
上畠, 菜緒, 1993-
出版社
集英社
ISBN
9784087716986
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

天国はつまらなくあってほしい

[文] 倉本さおり(書評家、ライター)

主人公の祐(たすく)は、とある「島」出身の若い女性。島の特徴は、珍しい夏みかんの栽培と、「しゃもぬま」という、小さな馬のような生き物がいること。 しゃもぬまは、自らの死期が近づいたとき島の人間をひとり選び、一緒に天国に連れて行ってくれることがあると信じられ、神聖視されている。ある日、島を離れて生活している祐のもとへ、なぜかしゃもぬまが現れる。困惑しながらも受け入れる祐だったが、島にいた頃の親友・紫織(しおり)やその「家族」を巻き込んだ不穏な空気に揺さぶられていく─。

第32回小説すばる新人賞を受賞した上畠菜緒さんの『しゃもぬまの島』は、民話的な要素に複雑な人間ドラマが絡み合っていく異色の幻想譚。選考委員の心を射抜いた「しゃもぬま」の奇妙なリアリティの秘密をはじめ、そのしなやかな想像力の背景についてお話を伺いました。

上畠菜緒
上畠菜緒

「しゃもぬま」から物語ができあがった

─ 今回の「小説すばる新人賞」の選考会は例年以上に熱い議論が交わされたとか。選評で宮部みゆきさんが本作について「ラジカルな爆推し」と表現されていたのが印象的でした。いうなれば、「しゃもぬま」という不思議な生き物のリアリティが読者の胸のうちにたちのぼった時点で勝ちだった作品ではないかと。

 確かにしゃもぬまには助けてもらいました(笑)。実際に小説を書こうと思ったとき、最初にしゃもぬまの姿が映像で浮かびあがってきて、その生き物の特徴について考えているうちに、島という環境や、そこに住んでいる人びとの姿があとから浮かんできました。しゃもぬまを中心に小説の中の生態系ができあがっていったんです。
 天国に行ける生き物を描こうと思ったとき、そのファンタジーな部分と対比させるために、どう人間を描いたらいいかと考えました。天国も地獄も、この世に生きている人があって初めて存在するものだと思うので。そこで主人公の、ちょっと境界にいるようなキャラクターがたちのぼってきたんです。夢の世界と現実を行き来するような人を書くことで、しゃもぬまがより輪郭を持つのでは、と思いました。

─ 主人公の祐は、島を出て編集者の見習いのようなことをしながら生計を立てているものの、過酷な労働環境でモラハラ上司に消耗させられているせいか、ひたすら無気力に毎日を過ごしています。ところが唐突にしゃもぬまが現れたことで、ただぼんやりと重苦しかった日々にさまざまな亀裂が入っていく。しゃもぬまという死の象徴のような存在を迎え入れることによって、生きることをインストールし直していくという小説なんじゃないかなと感じました。

 そうかもしれないですね。それまでほとんど酒や水しか口に入れていなかった祐が、しゃもぬまが来たことで、ちゃんと生活というものを始めるようになる。死ぬってわかったときからようやく生きはじめる、みたいな部分はあります。

─ また、ルーティンの中に嵌められて受動的に日々を流しているような祐と、しゃもぬまの頑固でマイペースな姿も対比させているのかなとも思いました。

 それもあります。祐は執着や欲そのものが薄いというか、ほうっておくとそのまますーっと天国に行ってしまいそうだけれど、しゃもぬまのほうは実はしっかり現実で生きています。体臭もあるし、へんな草を食べたらちゃんと下痢するし。尻尾の毛とか地肌感とか、どこをとっても貧相で見た目は情けないやつなのに、全然人の言うことを聞かない。いちばん取り扱いに困る生き物です。

─ 祐の勤務先が「アダルト雑誌の出版社」という点も面白いです。

 性って、死とか無気力とかと対比させられるものじゃないですか? そういう、生きるとか命とか欲といったものに近い環境にあえて置くことで、より祐をぼやかしたかった。生きることの渦中にいながら、実際はその外縁にいる人物にしたかったんです。彼女を、いつも生と死の境界にいる危うい存在として描きたかった。

─ 祐という名前自体、女性の登場人物につけるものとしてはすこし珍しいですよね。

 たぶん書いているときは、単純に響きが好きでつけた名前だと思うんですけど、あとで編集の方と話しているときに、「この物語は女の子が背負ってるものがあるよね」という言葉をいただいて。祐はぼんやりしてるけど、逃れられない“タスク”をしょっているなと思ったんです。全然やる気に満ちあふれてないのに、タスクを背負わされて、一応それをこなそうと頑張って生きている。だから、最終的には悪くない名前だったと思っています。

上畠菜緒
上畠菜緒

「恋愛」ではない関係性

─ 人間ドラマが細密に描かれる一方で、この小説にはほとんど恋愛の要素は出てこないですよね。すくなくとも、祐をめぐる関係性には男女の恋愛らしきものはたちのぼらない。それは意識した上でのことですか。

 そもそも頭になかったかもしれないです。言ってしまえば、「恋愛」を意識してないんですよ。女性と男性とか、女性と女性とか、歳が離れてる女性と男性とか、なんなら女性と人外とか、関係性は考えますけど、恋愛とそうじゃない関係性の区別って難しいと思っていて。

─ 例えば祐が幼い頃、紫織と一緒にヘリに乗せてもらっているときに「あの山は私と祐のものね」と耳許で囁かれる場面なんかは、恋愛とも友情ともまた違う密な空気が芽生えていたように感じました。

 そうかもしれない。人として好きだとか、頼られてうれしいとか、その相手の特別な存在になりたいという気持ちは、性別とか年齢とか種族関係なくあると思うんですよ。それを恋愛とは言い切れないですよね。相手との特別な感情に名をつけるとして、それが、ひと言「恋愛」という選択肢しかないと思うと悲しいです。

─ そうしたカテゴライズできない微細な関係性の描き方に、新しい世代の書き手だなという印象を受けました。あと、結婚するとしゃもぬまを譲渡できる、というルールの用い方も非常にユニークです。

 はたして世帯を一緒にしているのが家族なのか、婚姻関係を結んでいる関係が家族なのか、それとも血縁があるなら離れて暮らしていても家族なのか。なにを家族というのかはわからない、といった疑問は物語にも反映させています。祐のお母さんの彼氏である萩祐(はぎすけ)君との関係もそう。お母さんは、萩祐君と祐の関係は二人が決めて、と言う。すごく自由な形の家族ですよね。私自身は、本人たちがそう思うのなら、それが「家族」なんだと思います。

─ しゃもぬまに課せられた「禁忌(きんき)」もストーリーを牽引するのに一役買っています。しゃもぬまに夏みかんを食べさせてはいけない、というルールはどのあたりで思いついたんですか。

 しゃもぬまに関していちばん初めに決めた事柄は「死んだら天国に行ける動物」ということでした。そこで「どうしたら天国に行けなくなるか」とか、逆に「どういう生き物だったら天国に行けるのか」みたいなことを考えていたら、ちょっとずつ設定が膨らんでいった感じです。仏教的な発想に近いのかもしれないんですが、欲を手放さないと天国には行けない、みたいなルールが最初に頭の中にあったんですよ。そこでふと浮かんだのが、夏みかんの鮮烈なイメージ。色とか匂いとか、あの鮮やかさは命とか欲のかたまり、生命力の象徴なんだろうなと。ということは、天国に行くためには夏みかんは食べちゃいけないのかな、と思って。でもしゃもぬまだってほんとうは夏みかんが好きなんだと思うんですよ。だからこそ我慢しなきゃいけないっていう、修行的な意味合いでそういう設定にしました。
 宗派によって違うのかもしれないですけれど、どこをとってみても仏教はややこしいことを言っていると感じます。極楽へ行くためにはちゃんと修行を積んで苦しい思いをしなくてはいけなかったり、地獄のルールも事細かくて想像力が爆発しすぎてるというか。その大変ややこしいところをあえて好む仏教の「苦しい思いのあと極楽に行く」という構図が、いじらしくて面白いと思っています。

─ なぜ、ややこしいタスクを背負うのか、と?

 はい。なぜわざわざ苦しいタスクを背負うのか。その挙句に行ける天国って、ほんとうにそれでいいの? って(笑)。

─ しゃもぬまが淡々と辛抱を重ねる一方で、作中の人間たちは大切な人がひとりだけ天国に行ってしまうことを恐れて四苦八苦しています。

 たぶん、人が普通に生きていたら行き着くところは地獄なんですよね。もちろん誰だって行きたくはないんでしょうけど。でも、死んでひとりだけ天国に行って、欲も何もない世界で過ごすより、苦しい責め苦があったとしても、地獄に堕ちて欲にまみれて、好きな人たちと一緒にいられるほうがいいんじゃないかって思います。やっぱり天国は個人的にはつまらなくあってほしいですね。


人間と人外の食い違いが面白い

─ 本作には民話や土着的な信仰の匂いも色濃く反映されています。出身校は島根大学ですよね。島根といえば、かの小泉八雲とも縁の深い。

 はい、島根のそういうところはすごく好きですね。ちなみに京都には妖怪の勉強ができる学校があって、大学受験のときはそこも受けました(笑)。妖怪とか神様とか、想像でしかつくれないものを研究すれば、人間性、人間の創造性みたいなものがいちばん濃く出てくるんじゃないかと思って。とはいえ、実際の大学生活ではそこまでちゃんと研究せずにのうのうと遊んでしまいました。

─ 小説の投稿は学生の頃から?

 大学で総合文芸部というところに入って、そこで年に一冊出る部誌みたいなものには投稿していました。でも、ちゃんとした文学賞に応募したのは今回が初めてです。
 もし一次選考に残ることができたら、自分の名前が「小説すばる」に載るんだなあ、そうなったら本当に嬉しいなあ、くらいの気持ちはありました。それがまさか、賞をいただけて、作品をたくさんの人に読んでいただけることになるなんて。あまりに大きな喜びだったので、感情を処理できなくて大変でした。

─ 選評では五木寛之さんが「『すばる』のほうが向いているのではないかとも感じた」とおっしゃっていました。なぜ投稿先に「小説すばる」を選んだんですか?

 自分ではエンタメ小説のつもりで書いていて、純文学とは思っていませんでした。映画化するときに、CGを駆使して映像化しないといけないとか、アニメにしかできない小説は純文学じゃないと思うんですよ。それは私の中ではエンタメ。だって、純文学の映画化だと思っていたところにCGでしゃもぬまが出てきたらがっかりしませんか? 何か違うみたいになりません?

─ その解釈、非常に興味深いですね(笑)。これまではどんなものを読まれてきたんですか。

 卒論は泉鏡花で書きましたが、小さいときはファンタジーが多かったかもしれないですね。『ダレン・シャン』とか『空色勾玉』シリーズとか、『狐笛のかなた』とか。魔法もそうだけど、やっぱり空想上の生き物が出てくるものに惹かれていて、宮崎駿監督の絵コンテ集なんかを眺めるのも好きでした。ジブリ作品、すごく好きなんですよ。トトロはめちゃくちゃ繰り返して観ました。トトロって、ぱっと見かわいいし、助けてくれる優しい存在っぽいですけど、何考えているかわからない怖さがありますよね?

─ 確かに、急に目を見開いたり、歯を剥きだしにする場面はドキッとします。

 怖いですよ。そして動物はそうあってほしい。例えば、雨の日にサツキちゃんがトトロに傘を貸してあげるシーンがありますが、あのときトトロは濡れないのが嬉しかったんじゃなくて、傘の上に落ちる雨だれの音が楽しかったんですよね。実際、近くにいたカエルなんかはしずくがピチョッて垂れて自分が濡れたときにゲコーッて喜んでいる。つまり人間がよかれと思ってやったことにはトトロは反応していなくて、別の部分で喜んでるという。あの食い違いが私にとってはすごく面白いんです。基本的に言わなくてもわかるだろう、みたいなところが全然通用しない。

─ 人間とは文法が違う、ということですか?

 そう。それぞれ別々の文法を持っているんだけど、それをお互いに理解はできない。知ろうと思っても、我々は人間の文法でしかものをはかれないわけですから。完全に知ることはできないけども、それでも共存していくしかない感が、宮崎駿監督の作品はリアルでいいですよね。

─ 実際ご自宅でも生き物を飼ってらっしゃるんですよね。

 犬とインコです。犬のほうはテレビドラマの「マルモのおきて」に出てきたミニチュアシュナウザーという犬種なんですが、うちの犬は規格外に大きくて太っていて、我が物顔で生きてる感がしゃもぬまと似てるかもしれないですね。インコのほうはコガネメキシコインコ。ぼんやりした毛色のしゃもぬまと違って超ビビッドカラーで、オレンジに赤に緑に、尻尾の先がちょっと青い。今、三歳なんですが、手の上に乗ってくるのでころころするんです。かわいいなー、かわいいなーって……。たぶん中身は小犬か何かだと思います(笑)。

─ インコってそんなに懐くものなんですか?

 すごいですよ。犬や猫は集団に属する動物で、基本的には家族愛が主軸になる生き物だからちゃんとその家族全体と仲良くするんですけど、インコはペア意識が強い生き物で、ひとり相棒を選んだらそこへ愛情が集中するんです。あとのメンバーはライバル的な感じだからむしろ攻撃してくることもある。相棒関係になるともうその相手にべったりなんです。

─ 面白いですね。そうした生き物を観察する際のまなざしの鋭さが本作にも確実に活かされている気がします。

 最初の勤め先がペットショップだった影響もあるかもしれません。動物たちはかわいいけど、かわいいだけじゃもちろん済まないところが多いんです。

─ いろいろ小説のネタになりそうですね。次回作も心から楽しみにしています。

上畠菜緒
うえはた・なお
1993年岡山県生まれ。島根大学法文学部言語文化学科卒業。「しゃもぬまの島」で第32回小説すばる新人賞を受賞。

聞き手・構成=倉本さおり/撮影=冨永智子

青春と読書
2020年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク