【文庫双六】古風ながら落ちが秀逸 人間通によるユーモアの世界――川本三郎
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
【前回の文庫双六】散文詩的な煌めき放つ“失われた青春”――野崎歓
https://www.bookbang.jp/review/article/618507
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サマセット・モームがフローベールの『感情教育』を酷評していたとは知らなかった。もっともモームは『読書案内』(西川正身訳、岩波文庫)では、フローベールの『ボヴァリー夫人』を多少の留保はつけながらも「偉大な、力づよい作品だ」と評価している。
モームの本は私などの世代には若い頃の必読書だった。理由は簡単。大学入試の英文解釈によくモームの作品が出題されたから。
人間通のモームの、皮肉とユーモアの世界は若者にもなんとか理解出来た。
大人になって、難解な現代文学に疲れたあとに読むといっそう面白い。
長編の『月と六ペンス』、『人間の絆』もさることながら短編が秀逸。古風な味とはいえ落ちがうまい。
ひとつ挙げれば「大佐の奥方」だろうか。これはいわゆる「逆転もの」。人間関係に突然、逆転が起る。弱い者が強くなる。蔑まれていたものに光が当たる。その人生の悲喜劇が巧みに描かれている。
一九三〇年代のイギリスの片田舎に中年の夫婦が暮している。子供はいない。
夫は第一次世界大戦で武勲をたてた大佐。地主でもあり地方の名士。
若い頃こそ妻を愛したがいまやすっかり盛りを過ぎた妻をかえりみない。「夜の相手としては落第」と見下し、ロンドンに若い女性を囲っている。
ところが、その地味な妻が詩集を出し、これが大評判になる。しかも内容は年上の人妻と青年の激しい恋の物語。どうも「奥方」の実体験らしい。
大佐は読んで仰天する。あの冴えない妻にこんな情熱が潜んでいたとは。相手は誰なのか。それまでの夫婦関係が逆転してゆく。
この三月、一九四八年のイギリス映画『四重奏(カルテット)』のDVDが発売された。モームの四つの短編「人生の実相」「変り種」「凧」そして「大佐の奥方」をもとにしたオムニバス。
映画版(ケン・アナキン監督)には原作にない落ち(相手が誰か分かる)が。