MISSING 失われているもの 村上龍著 新潮社

レビュー

3
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MISSING 失われているもの

『MISSING 失われているもの』

著者
村上 龍 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103934028
発売日
2020/03/18
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

MISSING 失われているもの 村上龍著 新潮社

[レビュアー] 栩木伸明(アイルランド文学者・早稲田大教授)

虚構を紡ぎ続ける

評・栩木伸明(アイルランド文学者・早稲田大教授)

 これは私小説に擬態した、臨床記録のような物語である。著者によく似た語り手によれば、記憶は「失われているもの」だけを残像とともに浮かび上がらせる。それゆえ記憶はつねに現在形で、過去の再現ではなく、創造的な変奏とでもいうべきものを現出させる。

 「わたし」の目の前にまず、真理子という女優があらわれる。古い知り合いなのだけれど、お互いが記憶している交友の内容に食い違いが目立つ。彼女はどうやら、「わたし」自身の考えが投影された架空の存在らしい。

 真理子が消えると、「わたし」の母親の声があらわれて、息子の声と混線しながら思い出を語る。旧朝鮮からの引き揚げ、画家だった父親のアトリエ、飼い犬のシェパードとの別れ。母の声にも「わたし」の記憶が投影されているらしい。

 「わたし」の意識は迷宮の中で踏み迷う。記憶と想像からなるその空間では、認知がしばしばひずむ。この迷宮は小説空間そのものだ。章タイトルの多くに、「わたし」の幼少期に封切りされた日本映画の題名が用いられている。しかもそのほとんどは、終戦後の社会を生きる家族をリアルに描いた成瀬巳喜男監督の作品である。母の回想に耳を傾けるうちに、間違って編集されたフィルムのように映画の一場面が混入しているのに気づく。ああそうか、家族の物語は時代の物語の一バージョンだったのだ!

 やがて、「わたし」は母の声に助けられて、小説家として誕生したときのことを思い出す。自分は、「永遠に終わらない夕暮れ」のような「抑うつ」と向き合い続けるために、「虚構を紡いでいくことを」選択したのであった、と。

 小説家は言葉にすがりつくようにして、認知の混乱が誘発される迷宮をさまよい続ける。読み手は、語り手が現実へ帰還する道筋がなかなか見えてこないのでやきもきする。だがこのさまよいこそが希望の光である。「わたし」は小説に生かされて虚構を紡ぎ続けているのだから。

われらの時代の作家

評・鈴木洋仁(社会学者・東洋大研究助手)

 どこに、どんな小説を書くか。メディアに対する村上龍の尖(とが)った嗅覚を今回も十二分に堪能できる。

 自らが編集長を務めるメールマガジンに昨年までの6年間、自作写真やCGを添えて連載され、文芸雑誌を経て単行本になる。電子書籍に合う文体で、媒体もファン向けから広げている。にもかかわらず書名は「失われているもの」だ。何を失うのか。

 ここに村上龍の仕掛けが見える。

 物語は、作家本人と思(おぼ)しき「わたし」と、昔つきあっていた(かどうか定かではない)女優・真理子との思い出に始まる。30歳という彼女の年齢等から計算すると、舞台は2010年頃の東京だと思われるものの、真理子がいるのかいないのか、いつごろの話なのか、読み手には設定を推しはかる手がかりがほとんどない。

 作家の母親をめぐり、記憶、現実、想像の間を行き来して話が進む。

 謎解きでないけれど、どこまでが謎なのかさえ読者にはわからない。

 成瀬巳喜男、川島雄三、小津安二郎といった日本映画の巨匠たちの作品名を掲げた章題は、筋道をたどる手助けになるのか疑わしい。

 「失われているもの」とは、母親や過去に交際してきた女性に関する作者の記憶、と受けとれるかもしれない。

 ここで、23年前本紙夕刊に連載された「イン ザ・ミソスープ」が、新聞小説にそぐわない過激さで読者を挑発したことを思いおこす。

 村上龍は、いつも世の中の空気を先んじて読み、読む側の良識をゆさぶってきた。本作では、日本の伝統的な私小説を思わせ、村上春樹ばりの不思議な作風を展開し、支持者とともに自分もたきつける。「失われている」のは、新たな出会いではないか、と。

 時には母のようにあたたかく見守ってくれたり、あるいは父のように厳しく叱ってくれたり、もしくは若い女優のように振り回してくれたりする読者はおらず、愛好者に閉じているのではないか、と。

 その寂しさという本質を透徹した文体で描ききる村上龍は、やっぱりわれらの時代の作家だ。

読売新聞
2020年4月12日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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