没後50年の節目に復刊 三島由紀夫の果てしない正常な精神

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没後50年の節目に復刊 三島由紀夫の果てしない正常な精神

[レビュアー] 笑い飯・哲夫(芸人)

 三島由紀夫さんの作品を愛読している者であれば、本書は心から探し求めていた、しかし慎重に捲らねばならない紙垂(かみしで)の束でありましょう。なぜなら、数々の美しい言葉を紡いでこられた文豪の、赤裸々なお人柄がここには明かされているからです。

 本書は三島由紀夫さんと交友のあったお二人による共著で、作品に登場する現場や登場していそうな場所を、三島さんの作品と人柄を熟知した感性で巡っておられます。また三島さんと一緒に巡られた時の回想などもあり、文字の上で三人の賢者による文殊の知恵を授けてもらっているような気分になります。

 実は以前より、異常な感覚の持ち主にも見えそうな三島由紀夫さんの、果てしない正常な精神について考えるのが個人的な趣味でもあります。例えば、『金閣寺』の主人公が持ち合わせている異常な思考について、その異常性を正常な文体によって表現してくださることで、正常な読者は異常に理解が及ぶわけです。今回、本書を拝読して、稚拙な持論に少々確信を持たせていただきました。

 著者のお二人には、三島由紀夫さんが自決の直前にもお手紙を書いていたそうで、ここではその一節も紹介されています。それは、頗る正常な人間の顔に隙間なく貼り付けられた正常な仮面の眼差しから発せられた告白であったはずです。

 本書を読めば、常に前向きな三島由紀夫さんの奥行きを知ることができるでしょう。数々の純文学作家に対する向き合い方、歌舞伎や浄瑠璃をはじめ芸能や芸術に対する趣向などを垣間見られます。過去の注連縄(しめなわ)を逆回しに解くことで、その中に閉じ込められていた霊験を放出するかのような感覚に包まれることができるのです。

 さて、そろそろ喩えがうるさいと憤慨される方もいらっしゃると思いますが、本書でも、三島文学の信念として「細部の描写が全体の崇高な美しさをつくる」と解説されています。そして、風景や内面を喩えで言い換える方術のナンバーワンとも言える三島由紀夫さんは、遂に宗派までも言い換える“技法”を駆使したと本書では指摘されています。

 50年前、あの自決に向かう直前に書き上げた『豊饒の海』に登場する奈良の尼寺を、臨済宗ではなく法相宗のお寺に換えているのです。なぜそうする必要があったのか、この名著を捲ると分かります。二人の先生が問題の解き方を教えてくれるその教室には、南窓から正解の丸が降り注いでいます。

新潮社 週刊新潮
2020年4月23日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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