裁判官はどのように考えているのか――日米の判例を比べてみたら……

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

アメリカから見た日本法

『アメリカから見た日本法』

著者
ジョン・マーク ・ラムザイヤー [著]/長谷部 恭男 [著]/宇賀 克也 [著]/中里 実 [著]/川出 敏裕 [著]/大村 敦志 [著]/松下 淳一 [著]/神田 秀樹 [著]/荒木 尚志 [著]/白石 忠志 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/法律
ISBN
9784641125919
発売日
2019/10/10
価格
3,850円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

裁判官はどのように考えているのか――日米の判例を比べてみたら……

[レビュアー] J・マーク・ラムザイヤー(ハーバード・ロー・スクール教授)

 裁判官だって普通の人間でしょう。
 原告も人間であれば、被告も人間である。警察官も検察官も我ら学者も人間である。
 当たり前のことだが、いくら我々法学者が頑張り、読みづらい判例に関して読みづらい解説を書こうとしても、判決の基となる紛争は、人間同士の喧嘩にあり、判例とは、その喧嘩を裁いた人間が裁き方について書いてみた小論である。「法」とは、過去の似た紛争について書かれた様々な判例を我々法学者が並び替えて作った、ある程度筋の通った論理なのである。
 この状況に失望されると困る。もう少しリラックスし、ユーモアを持ち、判例法のクレイジーさを楽しんでもらいたい。米国の判例法は、さらに奇矯な面があるので、米国の大学に勤めている私にとっては、気楽に研究できないことも時々あるが、この本は、大学で米国の裁判例を研究している者が、もう少し穏やかな日本の判例法を読んで、面白く思ったいくつかの考察をまとめたものと考えてもらいたい。
 というのが、この本の出発点の1つであった。しかし、出発点は、もう1つあった。故・田中英夫名誉教授が英米法を教えていた昭和の頃から、東京大学では「外から見た日本法」という講義があったらしく、このテーマを基にした本を1冊書かないかという話が私に回ってきたのである。日本人の先生方(正直に言えば、僕の友人が多いことは、間違いない)が重要判例をピックアップし、私が米国のロースクール教授としての個人的な考察を加え、さらに先生方の「反―考察」(論争というのは言い過ぎかもしれないが)を記載することにしたのである。
 簡単な例をいくつか挙げてみよう。戦後の民法は、親が遺言を書かずに死亡した場合、婚外子(以下同・いわゆる非嫡出子)は婚内子(以下同・嫡出子)の受け取る財産の半分を取るとしていたが、平成25年に最高裁は、この条文が憲法に違反するとした。戦後の民法においては、もちろん、親が婚外子と婚内子に同額の財産を残したければ、遺言にその通り記しておけば大抵の場合には問題がなかったし、親が婚外子に半分しか残したくなければ、これも遺言にその通り書いておけば、大抵の場合には、法改正後の今でも実現可能である。とすると、最高裁の判例に何の意味があるのかと疑問を持たざるを得ないが、最高裁の裁判官らは、この条文が差別的であるとして違憲とし、憲法学者もこの結果を高く評価しているように見える。
 問題は、こういった判例と世の中の人々との関係である。平成25年の最高裁の判例は、二つの紛争を同時に解決した。どちらの当事者に関する状況かは明かされなかったが、インターネットで検索すれば一方の紛争に関する事実がある程度わかってくる。夫と妻が共同でレストランを営んでいたところ、妻が病気になった。そこで夫が若い女性を雇ったのだが、その者と性的関係を持ち始めたのである。その後夫は、妻と婚内子の二人の子供を家から追い出して養育を放棄し、若い女性を家に住まわせて彼女との間にさらに二人の子供をもうけ、育てたのである。簡単に言えば、婚内子を捨てて婚外子を一生養ったのである。最高裁は、丁寧に育てられた婚外子に、養育を放棄された婚内子の財産の半分しか残さなかったことが憲法違反だと言うのである。
 とは言っても学者には、裁判官よりさらに実社会が見えていない場合があると言ってよいかもしれない。昭和38年に三菱樹脂は、新入社員が、学生時代に全学連の指導者として同35年(1960年)の安保闘争に参加していたことを隠し、虚偽の書類を提出していたことに気付き、直ちに解雇し、訴えられたが、数年後に最高裁で勝訴(東京高裁へ差戻し)したのである。企業が過激な活動家を積極的に雇用しないのは当然のことであるが、多くの憲法学者は、思想の自由に反すると言っている。全学連は、単なる自由主義者の集まりではなかったし、虚偽の書類を提出する従業員は、どこの雇用者にとっても困る人材であり、他の社員も共に働きたくないであろう。米国の憲法学者も、このような解雇が憲法に違反すると時々主張するが、「知識人」がいかに一般の人間から離れているかを示す事例である。
 次に、判例が及ぼす影響を具体的に考えてみよう。例えば、賃貸借契約の解釈に関して裁判官は、「弱者保護」を理由に挙げて、契約期間が満期になっても賃貸人にアパートや家を取り戻す権利を認めない場合が多い。しかし、当事者双方が市場において契約を結んだ場合には、どちらが弱者なのかは、なかなかはっきりしない。中流階級の家族が裕福な地主からアパートを借りる場合もあれば、高所得の家族が破産しかけた地主から借りる場合もある。また、家主が貧しくても金持ちであっても、市場価格以上の家賃を請求しようとすれば、賃借人は別の住居を借りることができるし、賃借人が市場価格以下の家賃にするよう要求すれば、家主も簡単に断ることができる。もちろん、この原則は、価格だけではなく、賃借の期間等のあらゆる契約条件にも、当てはまることである。
 にもかかわらず、当事者が限られた期間の賃借契約を結ぼうとしても、日本の裁判官は、それを認めないことが多い。賃借人が賃借期間後に一方的に延長できる権利を行使すれば、賃貸人は、その代わりにより高い賃貸料を請求することが一般的であろう。しかし、賃借人が賃借期間を一方的に延長する権利を放棄し、放棄した代わりにより低い賃貸料を請求しようとしても、裁判官は、その放棄を認めない。「弱者保護」を理由に挙げて、権利の放棄の代金としてより安い賃借料を認めてもらう選択肢を与えないのである。
 「弱者保護」が賃貸借市場に及ぼす実害は、賃借期間の延長でなく低い賃料を選ぶという選択肢にだけ及ぶものではない。賃借人が長期間住みたいようなアパートや家を見つけようと思っても、賃貸人は、なかなか供給してくれない。賃貸人には、数年おきに賃借人に入れ替わってもらいたいと考える者が多い。賃借料を市場価格に調整しなければならないし、ときには、リフォームしたいとか建て直したい場合もある。しかし、いくらはっきりした賃貸借期間を定めても、一度賃借人に貸してしまうと、素直に退去してくれるとは限らないし、賃借人が退去を拒否すれば、裁判所が賃貸人に家を取り戻す権利を認めてくれるとも限らない。結局、所有者の多くは、賃借人が長年住みたいと思うような物件を賃貸に出さないのである。
 渋谷近辺に古い家を持っているA氏の立場を考えてみよう。今は現金が足りないが、5年以内には、絶対建て直したいという場合、彼にとって最も有益な手段は、5年間だけ賃貸に出すことである。そして、青梅から出勤している若い夫婦の立場も考えてみよう。彼らは、5年間でもいいから都内に近い家を借りたいと考えている。頑張って貯金して5年後にはマンションを買う予定で、それまでの通勤時間をできるだけ短縮したい。A氏は5年間だけ貸したいし、若い夫婦も5年間でもいいから借りたいにもかかわらず、このような場合であっても、裁判官は、双方にとって最も好ましい契約を認めない可能性がある。
 労働契約の解釈に関しても、裁判官は、「弱者保護」を理由に挙げて解雇を極端に難しくし、双方の当事者間で選択できる契約の範囲を同じく制限しているのである。
 今度は、若い新卒者の立場を考えてみよう。就職に困り、不景気になれば解雇してもいいからぜひ働かせてくれと企業に頼む。人手不足の企業は、景気循環の後退局面を心配しているが、不景気になれば解雇されるリスクを覚悟してくれるのなら、新卒者に雇ってもいいと答えたい。企業は、解雇可能なら雇いたいし、新卒者は、その条件付きでもいいからとにかく働きたいにもかかわらず、裁判官は、この双方にとって好ましい契約を認めない。
 また、新卒者の能力を気にしている企業の立場を考えてみよう。雇用者は、従業員に求める不可欠な能力レベルがあり、新卒者がそのレベルで働けるなら雇いたいが、新卒者の能力をすぐに(例えば仮採用期間内に)正確に測ることができない場合がある。一方、新卒者は、企業にとって不可欠なレベルで働ける自信を持っている。この場合、企業が最低限のレベルを満たすことを条件として新卒者を雇うことが、企業にとっても、新卒者にとっても好ましい労働契約になるが、その契約は搾取的なものとして裁判官に取り扱われ、企業は新卒者を一度雇ってしまうと解雇が著しく難しくなることが多いのである。企業は能力のある新卒者を雇いたいし、新卒者は自分の能力を証明するチャンスが欲しいにもかかわらず、裁判官は、この双方にとって好ましい契約も認めないのである。
 「弱者保護」の概念は、厳しい残業の原因にもなりかねない。従来の日本の労働法上、一度雇った従業員は不景気になってもなかなか解雇できないが、雇用者は、景気が循環することをはっきり理解しており、今日は人手不足であっても、明日も不足するとは限らないことを常に意識している。それ故、不景気の時に従業員を解雇し、好景気の時に新たに従業員を雇いたい企業も、裁判官に解雇の自由を認めてもらえないのなら、新しく従業員を雇わず、今いる従業員に残業を要求して仕事を済ませようとするかもしれない。日本の残業が多い理由は、この「弱者保護」を基にした法制度にあり、過労死を招く要因の一つもこの点にあるという見方もできるであろう。
 裁判とは、人間に関する紛争でしかないと失望するよりも、そこに潜むクレイジーさこそを法的紛争の面白さの一部と考えてもらいたい。

有斐閣 書斎の窓
2020年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク