『猫を棄てる 父親について語るとき』
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猫を棄(す)てる 父親について語るとき 村上春樹著
[レビュアー] 重里徹也(聖徳大特任教授・文芸評論家)
◆日本人の心の底に触れる
村上春樹が家族や自身の幼少期についてつづったエッセイ。育ってきた背景や作家生活を続ける生活の底に流れている思想を率直に語っていて、興味深い一冊だ。
私がかねて考えてきたのは、村上には共同体への深くもつれたこだわりがあるということだ。彼の小説は理想の共同体を思い描いたり、その非現実性を批判したり、といった心の往来をくり返して、切なさや叙情を生み、それが抜群に人気を集める理由の一つのように思う。
共同体にもいろいろあって、『ノルウェイの森』の阿美寮(直子が入る療養施設)のような集団生活もあれば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」のような地域の場合もある。家族や夫婦の姿、高校時代の仲良しグループの真実が問われる作品もあった。
このエッセイはタイトル通り、猫という広い意味での「家族の一員のようなもの」を棄てようとして、また戻ってきたエピソードから始まる。続いて、寺の住職の次男として生まれた父親が妻(村上の母親)の激しい反対もあって跡を継がなかったこと、学問好きな父親は戦争のために志を果たせなかったこと、中国に出征した父親が過酷な体験をしたと考えられること、その父親は毎朝、戦争の犠牲者を悼んで読経していたことなどがつづられる。
「無国籍風」などと評される村上文学は、実は日本列島で暮らしてきた人々の文化的伝統に深く根差している。日本の古典文学がしばしば引用されるだけではない。作品を読めば、仏教的ともいえる無常観や多神教的な世界観に基づいた記述が頻繁に表れ、四季の移ろいが作品を彩るのにすぐに気づくだろう。「誠実で少し優柔不断な男性主人公がとても日本人的」という意見を聞いたこともある。
この本を読むと、それに加えて父親の戦争体験が、家族のいわば「共同体的無意識」になっていたのがわかる。村上は自身のルーツを語る中で、現代日本人の心の底にあるものにも触れているのではないかと感じられた。
(文芸春秋・1320円)
1949年生まれ。作家。著書『ねじまき鳥クロニクル』『騎士団長殺し』など。
◆もう1冊
村上春樹著『ノルウェイの森』(上)(下)(講談社文庫)