物語は「現実に立ち向かうための力」を与えてくれる――『ハンナのいない10月は』著者新刊エッセイ 相川英輔

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ハンナのいない10月は

『ハンナのいない10月は』

著者
相川英輔 [著]
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309028866
発売日
2020/05/26
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

物語は「現実に立ち向かうための力」を与えてくれる――『ハンナのいない10月は』著者新刊エッセイ 相川英輔

[レビュアー] 相川英輔(小説家)


相川英輔

数々の文学賞を受賞しデビューした注目の新人作家・相川英輔さんの注目の新刊『ハンナのいない10月』が、河出書房新社より刊行されます。猫のハンナと研究室で暮らす大学の万年講師が次々と起きる大学存亡の危機に立ち向かう感動の青春ミステリです。コロナ禍の中で、新刊を世の中に送り出す相川さんにエッセイをご寄稿いただきました。

 ***

 若者でごったがえす学生食堂、響き渡るサークル勧誘の大きな声、どこまでも続くテキスト販売所の行列。
 四月の風物詩ともいえる活気に溢れた大学の光景が、今年は一切見られない。新型コロナウイルス(COVID-19)の影響だ。感染拡大防止のために学生食堂は閉鎖され、学生たちはすべての授業をオンラインで受けることとなった。人影のないキャンパスはまるで西部劇に出てくる荒野のようで、乾いた風だけが音を立てて吹き抜けていく。異様な景色だ。こんな事態になるなんて、数か月前までは想像もできなかった。
 近年、世界の分断化が一層進んでいる。人種による線引き、国籍による線引き、宗教、思想、経済格差による線引き。それらに加え、今回の騒動によって新たな線引きが生まれつつあるように感じられてならない。

 僕は兼業小説家として、日中は大学で働いている。ダブルワークは正直しんどいことも多いけれど、学生たちと向き合い、対話し、ときに本気で意見をぶつけ合う日々はとても刺激だ。二十歳前後の学生たちはいつだって新しい感性をもっていて、彼らから学ぶことは多い。僕はもういい大人で、組織側の人間として彼らの行動を諌めたり、叱ったりしなければならいこともある。それでも、可能な限り学生の側に立っていようと決めている。彼らが踏破すべき「山」になっても、彼らを遮り、分断する「障壁」になる気はない。元気な学生たちの存在こそが大学に活力をもたらす原動力となるのだから。
 しかし、大学はゴーストタウンの様相を呈し、小説の仕事も新型コロナウイルスの影響を少なからず受けている。トークイベントや書店への挨拶周りが中止・延期になるだけでなく、印刷会社の輪転機が止まればそもそも本が作れなくなる。そんな危機的な状況の中、予定どおり刊行していただいた出版社には感謝の念しかない。

『ハンナのいない10月は』を書き始めたのはおよそ一年前のことだ。刊行に至るまでには紆余曲折の長い旅になる予感がした。
 書き始めるとき、僕は自分に一つの決めごとを課した。それは「ずっと健康でいること」だ。単純だけど、簡単ではない決めごと。長篇を書き上げるには高い集中力と健全な肉体が必要になる。きっと初稿ができた後も何度も手直しが求められるだろう。風邪や過労で寝込んでしまい、原稿が遅れるようなことだけは絶対にしない、と決意を固めていた。
 手洗い、うがいを徹底し、可能な限り睡眠時間を確保した。ジョギングや筋トレで汗を流すことは体を鍛えるためだけでなく、ストレス発散にも役立った。今年の三月頃からは新型コロナウイルスの影がひたひたと身辺に迫ってくるような、得も言われぬ恐怖を感じ始めた。僕はそれまで以上に健康維持に気を配り、食事のバランスや質にもこだわるようにした。
 結果、一年間病気をすることなく、物語を最良の形で完成させ、刊行を迎えることができた。このことに関しては自分を褒めてあげたいと思っている。

「あなたの小説はジャンルが分からない」
 これまで僕が何度も言われてきたセリフだ。身近な人だけでなく、新聞記者や編集者にも言われたし、文学賞の授賞式で言われたことさえある。デビュー作の『雲を離れた月』を刊行した際も、また同じことが繰り返された。「これは青春小説なんですか?」、「ホラーとして読めばいいの?」、「ファンタジーだよね?」「もしかしてミステリのつもり?」と。そのたびに、僕は曖昧に笑い、言葉を濁してきた。
 もちろん、賞を与えるためや、本を売るためにジャンル分けが必要なことは分かる。でも、読み手にとってそれは本当に必要なのだろうか。読者は心に残るような、夢中になれるような物語を求めているのであって、ジャンル分けなんて不要なんじゃないかと思う。
『ハンナのいない10月は』では、舞台となる大学の内外でさまざまな出来事が発生する。学生自治会選挙での不正疑惑、他大学による陰謀。隕石落下にまつわるエピソードもある。おそらく今回もジャンルに関する意見や疑問が湧くことだろう。
 でも、僕はもう曖昧に笑ってごまかすようなことはしないつもりだ。ジャンルのことを聞かれたら、シンプルにこう答えようと思う。「この作品のジャンルは、フィクションです」と。世界がさまざま線引きされる中、物語くらいは線引きしないで読んでほしい。フィクションかノンフィクションか。それくらいの区分けで充分だろう。いや、本来はそれすら不要なのかもしれない。拙著を手に取ってくださる読者の方々には、どうかジャンルのことは忘れて、純粋に物語を楽しんでほしいと願います。
 僕は小さい頃から何度も本の中の物語に救われてきた。現実逃避できるからじゃない。僕は物語を読む中で「現実に立ち向かうための力」を得てきたからだ。世界が不安に包まれる中、『ハンナのいない10月は』が少しでも慰めや励ましになれば、また現実に立ち向かう際の支えになれば、それより嬉しいことはありません。

 新型コロナウイルスの影響で美術館は休館し、演劇は中止となり、書店に足を運ぶことをためらう人も多い。残念だけれど、こればかりはやむを得ないと思う。文化は「不要不急」のものなのだろうから。
 僕たちは健康であり続けることで新型コロナウイルスに抗うしかない。他人にうつさないよう自らを律し、もし罹患してもしっかり回復することで人間の底力を見せつけるようじゃないか。
 人類が疫病に勝利したときには高らかに凱歌をあげ、不要不急のものを、守りきった文化を心から楽しもう。その日が訪れるのは、僕はそう遠くないと思っている。

アップルシード・エージェンシー
2020年5月27日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

アップルシード・エージェンシー

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