芸術の力を感じさせてくれる美術家の言葉による作品集
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
内藤礼は美術家だが、作品は通常の美術とはだいぶちがう。瀬戸内の豊島(てしま)美術館に設置された《母型》は、柱が一本もない、コンタクトレンズを伏せたような形をした空間の床に、小さな穴が無数に開いていて、そこから染み出した水滴がわずかに傾斜した床面を流れていく。途中でちぎれたり、別の滴と一緒になったり、長く伸びたり、小さく縮んだり。たったそれだけのことだが、床に這いつくばって見つめるうちに体の奥にしこったものが滴と一緒に溶けだし、自分の存在が消える。そのことが恐怖どころか、浄化の歓びをもたらすのだ。
内藤がこの二十余年に書いた文章を集めた本書に、こんな言葉を見つけた。「この世界に人の力を加えることがものをつくるという意味だと言うのなら、私はつくらない」。
つくることが性(さが)であるはずの美術家が、「つくらない」と宣言したらどういうことになるのか。その問いへのひとつの答えが、先にあげた《母型》であるだろう。
水滴はむろん彼女がつくったものではないし、その動きも彼女が指示したわけではない。だが、この設(しつら)えがなければこれらの水滴に出会うことがなかったのは確かだ。ここに新しい意味の「つくる」がある。自己表現からも意味の探求からも遠く隔たった、何かの顕れを導きだそうとする美術行為の模索だ。
人は自己の意識を強く持っていなければ芸術表現にむかわないが、内藤のようにその自意識から解放されたいと念じておこなう創作は、自分が無になっていく恐ろしさをも含んでいる。それについて彼女は言う。「その恐怖が深い懐かしさに変わってゆくことも、ひとにはあるのかもしれない」「懐かしさが浮かび上がってこないか待っています」。
無になる恐怖に懐かしさがある――。この言葉は、コロナ禍への現実的な解決策とは異なる心の平安を与えてくれる。芸術の力だ。