辞書にとりつかれた“女オタク”のイタくて悲しくて楽しい活動報告

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ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険

『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』

著者
コーリー・スタンパー [著]/鴻巣友季子 [訳]/竹内要江 [訳]/木下眞穂 [訳]/ラッシャー貴子 [訳]/手嶋由美子 [訳]/井口富美子 [訳]
出版社
左右社
ISBN
9784865282566
発売日
2020/04/13
価格
2,970円(税込)

書籍情報:openBD

辞書にとりつかれた“女オタク”のイタくて悲しくて楽しい活動報告

[レビュアー] 渡邊十絲子(詩人)

 辞書をつくる。言葉に興味をもつ人間にとってそれはロマンティックな夢だが、実際に辞書を編集するとなれば、底なしの泥沼に踏み込む覚悟が必要だ。寝ても覚めても頭のなかで語釈を転がし、用例の証拠を求めてさまよう日々。

 著者は、そんなふうに辞書にとりつかれた人間のひとりだ。ウェブスターは、アメリカの辞書出版の老舗。咸臨丸で海を渡った福澤諭吉がまず求めたのがウェブスターの辞書である。そんな権威ある辞書づくりに参加した女性編集者として、著者がいかに奮闘努力したか。この本はそれをコミカルに、しかし迫力をもって描写している。

 辞書編集に興味をもつぐらいだから、文法知識にはそこそこ自信がある。なのに古参の教育係は、たとえばこんな質問で新人を混乱させる。goodは形容詞か副詞か? 新人は答える、もちろん形容詞です。しかし教育係は、I’m doing goodという用例をつきつける。明らかに副詞的用法である。哀れな新人は、ついさっき自分がそのフレーズを口にしたばかりであることを思い出し、冷や汗をかく。言葉は、きれいに「仕分け」ができるようなものではない。

 日々、混沌の海で溺れながら、著者はときに「いいママ」になろうとして娘をデパートに連れ出し、しかしそこでも辞書のとりこであることを露呈してしまう。アイシャドウの「ヌード・パレット」に、白から焦げ茶までの色がセットされているのを発見したのだ。nudeは白人の肌の色だけを指すのかという問題に悩む母親は、この用例をすかさず写真におさめ、娘にあきれられる。

 そう、この本は、女オタクの活動報告なのだ。「推し」(著者の場合は英語)は手ごわくて奔放で、振り回されるばかり。でも愛しているから、生活のすべての時間を「推し」に捧げてしまう。イタくて悲しくて楽しい。しょうもない人の笑える話として楽しむべき本である。

新潮社 週刊新潮
2020年5月28日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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