『白痴』
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「聖なる痴者」を愛した青年の純愛物語
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
「聖なる痴者」の物語というものがある。
知能が少し足りないかもしれないが、それだけに現実に汚されておらず無垢な心を持っている。映画ファンならフェリーニの『道』を思い浮かべるだろう。
小説なら坂口安吾の「白痴」。終戦直後の混乱期、昭和二十一年に発表された。
戦争末期、東京の蒲田あたり。「妾や淫売」が住む安アパートが並ぶ。二十七歳の青年はその一画の掘立小屋に住む。文化映画を作る会社にいる。どうも徴用逃れらしい。
すでに東京空襲は始まり町にも被害は及んでいる。通りには焼死体が「焼鳥」のようにころがっている。
青年は近くに住む美しい人の妻と知り合う。彼女は知能が足りない。いつも義母に怒られておどおどしている。ある日、青年の部屋に逃げ込んでくる。
すでに前途になんの希望も持てず虚無的になっている青年は、彼女の心のなかにこそ美しさを見出す。そして空襲の夜、なんとか彼女を守って逃げる。
「聖なる痴者」を愛した青年の極限状況下の純愛が切なく胸を打つ。
安吾には二十歳で死んだ姪がいた。子供の頃から結核で寝たきり。十九歳になっても肉体精神とも十三、四歳くらい。もうすでにこの世にいないかのよう。
「白痴」の女にはこの姪が反映されているのかもしれない。「俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ」。「俺」はこの女に救われている。