村上龍が「こんな作品は二度と書けない」と語った最新作を精神科医の斎藤環が解説

レビュー

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MISSING失われているもの

『MISSING失われているもの』

著者
村上, 竜, 1952-
出版社
新潮社
ISBN
9784103934028
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

媒介としての「母なる幻」

[レビュアー] 斎藤環(精神科医)


村上龍さん(撮影・近藤篤)

斎藤環・評「媒介としての『母なる幻想』」

『限りなく透明に近いブルー』から44年。作家・村上龍の集大成にして重要な新境地作『MISSING 失われているもの』について、精神科医の斎藤環さんが書評を寄せた。

 ***

 村上龍の五年ぶりの長編には驚かされた。本作は過去のどの村上作品にも似ていない。従来の村上龍の作風は、基本的にきわめて技巧的かつ構成的であり、対象物に鮮明にフォーカスした視覚的な描写が特徴的だった。しかし本作の手触りはまるで異なる。作家自身のリアルな追想が、半ば独白めいた一人称で断片的に記述されていく。

 みかけは一種の幻想小説で、私はまず内田百閒を連想した。ただ、内田の幻想小説(「冥途」「旅順入城式」など)は、かなりあからさまに夢の論理(≒錯論理)で成立しているのに対して、本作は幻想的でありながらも並行して自己分析のドライブが作動しており、言わば明晰夢のような趣がある。自身の無意識を掘り下げていくという点では村上春樹的な手法のようにも思われたが、本作はメタレベルが何重にも入り組んでいて、眩暈のような感覚にしばしば襲われる。基本的にメタ的手法を用いない春樹とはきわめて対照的だ。

 どうやら作者自身とおぼしい作家の「わたし」が、謎めいた女優「真理子」に導かれ、現実と幻想、現在と過去が複雑に入り乱れる世界を彷徨する。「わたし」が乗る電車では乗客が「みな後ろ姿」だったり、「清楚な食虫植物という感じの巨大なツツジの花弁」を通過したりなど、村上龍らしい鮮烈なイメージが繰り返し出てくる。本書の章タイトルの多くが、「浮雲」「乱れる」「放浪記」など、村上が敬愛してやまない成瀬巳喜男監督作品から採られているのも興味深い。

 本作にはまた、作者の分身とおぼしい存在が繰り返し登場する。例えば、飼い猫の「タラ」。“彼女”は作家の思考に容赦なくツッコミを入れ、時にはなすべきことを示唆しさえする。しかし作家は、それが自身の分身であることを知っている。例えばこんなふうに。

「もちろん、タラの言葉ではなく、わたしの意識をリフレクトしているだけだ。何がわかりきっているというのか。おそらくタラは、わたしの意識や感情だけではなく、無意識の領域の記憶や思いを拾い上げているのかも知れない」と。しかしそんな洞察にも、タラはにべもない。「お前の無意識なんか、覗き見できないし、興味ないよ」と。

 あるいは作家に助言する若い心療内科医。医師は、作家の体験を聞いた上で「病気ではない」と断ずる。あるいは作家という職業柄、強い想像が現実を包み込んでしまうことがありうる、と解釈する。しかし医師ならば、異常な体験を聞いたらまず、可能性の高い診断名をいくつか挙げた上で、「でも軽いから大丈夫」などと説明するものだ。想像が現実を覆ってしまったら、まず幻覚を疑うのが通常である。要するにこの心療内科医もまた、作家の分身である可能性が高いのだ。

 してみると本作は、謎の女「真理子」を導きの糸として、作家が自身の無意識へとダイブしようとする試みなのかもしれない。ただし作家は賢明にも、無防備のまま自身の無意識と向き合う危険を予期していた。「タラ」や「心療内科医」をはじめとする分身は、作家を自己分析という形式で“現実”につなぎ止めるための命綱ではなかったか。

 真理子の導きで辿りついた「アジサイが咲き乱れる場所」で、作家は聞き覚えのある声を聞く。それは母の声だった。母は作家の幼児期の記憶を語る。「いやなことは絶対にしない子」だった彼を、母は「好きだった」と繰り返し言う。また母は、作家が「この世の中でもっとも好きな映画」(おそらく成瀬巳喜男の「浮雲」)のあるシーンを例に出して「そういった瞬間には想像力の暴走と逆襲がないから」不安も恐怖もないと指摘し、小説は作家にとって最大の救済であると同時に抑うつを植えつける、とも指摘する。この時点で母は、ある種の万能性に近づいている。

 本作の大部分を占める母の幻想がなぜ登場したのか。「自分でもわからない」と村上は述べている。評者の推測はこうだ。自身の無意識と分析的に向き合い続けることは、人をしばしば「退行」に導く。退行の最深部で人は、原初に抱いていた「万能の母(ファリック・マザー)」の幻想に行き当たる。ただし村上は、その幻想と安易に一体化することを潔しとしなかった。彼はあたかも母の幻想を媒介に、さらに自身の無意識へ探査を進めようとしたのではなかったか。その意味で本作は、私小説などよりはるかに村上自身をさらけ出す試みとも言えるだろう。

 こんな作品は二度と書けないだろう、と村上は記している。しかし評者は、ある種の「危険」を承知した上で、「この先」の物語を読んでみたい、という思いを禁じえない。

新潮社 波
2020年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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