社会とことば 井上ひさし著 /「井上ひさし」を読む 小森陽一・成田龍一編著
[レビュアー] 尾崎真理子(早稲田大学教授/読売新聞調査研究本部客員研究員)
稀代(きだい)の劇作家が去って10年。短編集『十二人の手紙』(中公文庫)が再び読者を集めている。
単行本未収録のエッセー集『社会とことば』など3冊が新たに編まれ、広範囲の仕事を見渡した連続座談『「井上ひさし」を読む』もまとまった。この両書に共通する話題は、やはり代表長編『吉里吉里人(きりきりじん)』で、1950年、15歳で早くも原型「わが町の独立」を大学ノートに記していた作者は、一部をラジオ劇として64年に実現(『社会とことば』にその検討稿を掲載)。73年から雑誌に連載し始めてからも81年の完成まで、難産した経過がよくわかった。
今頃になってしみじみ理解されるが、すべての仕事は近代史の文脈の中に網羅的に展開されたものだったのだ。生前は謙虚さに包み隠されていたけれど、実にスケールの大きい作家だったと、『「井上ひさし」を読む』に登場した今村忠純、島村輝、大江健三郎、辻井喬、永井愛、平田オリザ各氏が、聞き手の小森陽一、成田龍一両氏の導きに応じて、口々に証言している。とてつもない勉強量は「註(ちゅう)」が物語っている。
同書の座談で最も評価を集めた戯曲は97年初演の「紙屋町さくらホテル」だ。広島で被爆した移動劇団「桜隊」の実話をもとに、戦争の悲惨と責任の所在を新国立劇場の開場公演で問いかける――そんな難題をこの作者以外、誰が果たせただろう。それは坪内逍遥が夢見た楽劇であり、近代日本語への異議申し立てであり、個々の生活を激励することばの慈雨でもあった。乃木大将、樋口一葉、宮沢賢治、林芙美子……数多い評伝劇も含めて井上のすべての劇には<美しさと悲しさと滑稽さ、それらが全部入っている。悲しいはずなのに、何か元気がいい>(永井愛)。全く、その通りだ。
「ひょうたん島」から「こまつ座」まで知る幸運な世代は、井上ひさしの仕事をしっかり次代へ伝えなければならない。再評価を促す入り口が、これらの出版で出揃(でそろ)いつつある。
◇いのうえ・ひさし=1934~2010年。山形県生まれ。放送作家などを経て作家・劇作家。1972年に直木賞受賞。