空の声 堂場瞬一著
[レビュアー] 稲野和利(ふるさと財団理事長)
92歳になる評者の母親に、「『話の泉』(NHKラジオのクイズ番組)って覚えてる?」と聞いたら、「ああ、ワダ・シンケンね。声はいいし頭もいいし、人気があったねえ」と70年ほど前のことなのに記憶が鮮明だ。
本書は、NHKアナウンサー和田信賢(のぶかた)を主人公とする実名小説である。双葉山の連勝記録が途絶えた大相撲の実況や玉音放送を担った実力者の和田は、戦後、「話の泉」の司会者として評判をとる。テレビ放送が始まる前の時代、その喋(しゃべ)りを「瞬間芸術」と自称する和田は酒豪で人付き合いが良く、ラジオの人気者であった。
1952年のヘルシンキ・オリンピックは日本が戦後初めて参加する夏季大会である。和田は念願の取材団の一員に選ばれるが、長年の無頼からか体調に不安を残す。南回りの空路60時間の長旅で、いきなり体調不良が表面化する。取材団は4人のアナウンサーで連日10時間の放送をこなすが、和田の体調は回復しない。日本中がメダルを期待した「フジヤマのトビウオ」古橋広之進は競泳決勝で敗れるが、和田はその試合を観戦することすらできず、古橋の無念と和田の無念が交錯する。やがてオリンピックは終わり、取材団一行は次の目的地パリに移動する。そこでは驚くべき事態が待っていた。
戦後復興から成長へと向かおうとするこの時代、誰しもがひた走りに走っていた。「命懸け」という言葉は今でも使われるが、この当時、今よりもっと死が身近にあった時代においてはその言葉の重さが違うだろう。選手もアナウンサーも命懸けだったのだ。和田自身の緊迫感とスポーツアナウンサー志村正順や若手技師の大原保との友情が織りなすストーリーは読者を引き付けて離さないだろう。徳川夢声との交友も描かれ、読んだ後に時代の余韻が残る。
読了後、ユーチューブで和田信賢の声を探した。目を閉じ耳を傾けると、滋味深い声が聞こえてきた。
◇どうば・しゅんいち=1963年生まれ。『8年』で小説すばる新人賞。著書に『刑事・鳴沢了』シリーズなど。