私小説的であり冒険物語でもある本書で著者が探し求めたもの
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
長く書き続ける作家は物語から歴史へと向かうものなのか。齢を重ねるうちに視線は自分を超えて過去を見つめはじめる。鴎外がそうであり、手塚治虫がそうだった。
村上龍が古稀を前に完成させたこの大作はしかし、物語であり同時に歴史であろうとする。
老境に差し掛かった作家が、巻き込まれるようにして自身のルーツを探る旅に出る。その意味では私小説的と言える部分もあるが、しかし、異世界からの誘いに応じて冒険に出る典型的な英雄物語でもある。喋る猫、実在するかどうかも分からない魅力的な若い女性、象徴的な光の束、章ごとに付された古い日本映画のタイトル……ミステリー仕立てになってはいるが、しかしこの小説はなによりまず、死という行く末を意識した主人公が、記憶と想像とを駆使して自分の来し方を辿ろうとする話である。
主人公である作家は、数年前から原因不明の漠然とした不安に日々苛まれるようになった。そこに現れた謎の女に案内され、意識は現実と記憶と想像とのはざまをさまよう。遡行するまなざしは自分を超えて母の幼いときにまで至る。自分は小説を生んだが、自分を生んだのは母である。そこまで遡って、作家となった自分の由来をたずねようとするのだ。なぜそこまで。
性と暴力と薬とで大センセーションを巻き起こした自分のデビュー作を、しかし母は読んでくれなかった。母は、私の生んだ作品を初孫と認めず、祖母になることを拒んでいるかのようだ。父として一人前になった自分を認めてもらうためにも、母と作品を繋げなければならない。そのためには母のことも知らなければならない。母を書かなければならない。
これが冒険物語ならば、求める宝は母との真の和解である。ミステリーの装いも、母との面映ゆい関係を描く際の照れ隠しのようにも思われる。