豊﨑由美が読む、芥川賞作家・山下澄人「月の客」死生観の深さに胸打たれる
[レビュアー] 豊崎由美(書評家・ライター)
死生観の深さに胸打たれる
口のきけない母親を孕(はら)ませて消えた父親。五歳で酒屋にやられ、最初は可愛がられたものの家業が傾くにつれネグレクトに遭い、いったんは母親の元に帰りながらも、十歳にして小さな神社の裏を登っていったところにある穴で〈いぬ〉と共に浮浪児暮らしを始めるトシ。五歳の時に酔っ払った母親に突き飛ばされたせいで生涯足を引きずって歩くようになり、その母親も中学生の時に自殺。父親と暮らすも中学卒業と同時に縁を切って出奔し、同じ年のトシと穴で暮らし始めるようになるサナ。
山下澄人の『月の客』は、親をはじめとする大人たちや社会の助けをほとんど受けられず成長していく少年と少女の一生を、作者ならではの、何の断りもなしに、過去と現在と未来を融通無碍(ゆうずうむげ)に行き来する筆致で描いていく。
ほとんど口をきかないトシ。ある因縁からアイスピックで人を刺し、施設に入れられるトシ。出所後、見世物小屋で犬と会話ができる〈犬少年〉として働くようになるトシ。巡業で訪れた雪の街で、男とラブホテルに入っていくサナを見かけるトシ。母親に弟のラザロを生ませ、暴力をふるってばかりいる男の耳をナイフでそいで逃げ、いぬと共にほら穴に帰るトシ。
たくさんの出来事がたくさんの記憶を引き出す式に、時系列を無視した声で物語られていく先にあるのは阪神・淡路大震災だ。燃えさかる街の火の中から人魂のようなものが、大きな月に向かってゆっくり上がっていくのを見るトシ。さまざまな仕事に就き、愛してもいない男たちと寝て、各地を転々とすることになった末に行き場を失い、公園のピンクの象の中で被災したのち、ほら穴でトシといぬに再会するサナ。
トシとサナだけではなく、大勢の人物の声や思いや記憶が溶け合うこの小説を読んでいると、わたしたちが“わたし”だけで出来ているのではないこと、目を開けて見ている現実の時間だけを生きているのではないこと、夢も死もまた生の時間なのだということが、切実に了解されていく。小さくて大きい、大きくて細やか、細やかで大胆、大胆で優しい。山下澄人の死生観の深さに胸打たれる素晴らしい作品だ。
豊﨑由美
とよざき・ゆみ ● 書評家