イエスの学校時代 J・M・クッツェー著 早川書房

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イエスの学校時代

『イエスの学校時代』

著者
J・M・クッツェー [著]/鴻巣 友季子 [訳]
出版社
早川書房
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784152099341
発売日
2020/04/16
価格
2,530円(税込)

書籍情報:openBD

イエスの学校時代 J・M・クッツェー著 早川書房

[レビュアー] 村田沙耶香(作家)

 問う、ということについて、『イエスの学校時代』を読んでからずっと考え続けている。

 『イエスの学校時代』は、『イエスの幼子時代』の続編であるが、訳者あとがきにもあるように、この作品だけで充分に独立して読むことができると思う。過去を洗い流した、中年男性のシモン、孤児の男の子ダビード、その母親になったイネスは奇妙な疑似家族のような関係だ。三人は田舎町で新生活を始め、普通の学校に馴染(なじ)めないダビードは、ダンススクールに通うこととなる。やがて事件が起き、物語は急激に速度を増して、思いがけない方向へと転がっていく。

 ダビードは幾度も、様々な人に、「問い」を投げかける。「どうして牛は死ななくちゃならないの?」「アナの心臓を止めようとしてやったの?」ダビードの質問攻めは時にシモンを困らせ、うんざりさせるが、ダビードは問うのをやめない。一方で物語の後半、事件で罪を犯した人物に対して、裁判所でこんな言葉が向けられる。「人間の行動としてあり得ない。ほかにも原因が重なっているはずだ」

 「あんたらにわたしの罪深さを測れるものか。測れるような罪ではない!」

 とても恐ろしい犯罪であるのに、犯人の言葉に共鳴し、揺さぶられている自分がいる。理解できないものに対して、自分が納得するための物語を引き出そうとする「汚れた問い」のほうが私にはずっと恐ろしい。この場面に限らず、登場人物たちはいろいろな組み合わせで、何度も、奇妙な会話をする。この本の中の会話は、読者の中の「問い」を揺さぶり起こす特別な力を持っている。言葉の応酬の中に引きずりこまれ、その対話の奥に眠っている大きな「問い」の中に、いつの間にか立ち尽くしている。

 先入観で汚れた問いを捨て、人間の奥深くに眠っている根源的な問いの中へ沈んでいく。私にとって、この物語は、そういう不思議な化学変化を起こす力を持っている。鴻巣友季子訳。

読売新聞
2020年6月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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