一枚の絵で学ぶ美術史カラヴァッジョ《聖マタイの召命》 宮下規久朗著

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一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》

『一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》』

著者
宮下 規久朗 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
芸術・生活/芸術総記
ISBN
9784480683694
発売日
2020/02/05
価格
1,045円(税込)

書籍情報:openBD

一枚の絵で学ぶ美術史カラヴァッジョ《聖マタイの召命》 宮下規久朗著

[レビュアー] 栩木伸明(アイルランド文学者・早稲田大教授)

 10年前、著者の『カラヴァッジョ巡礼』を携えてローマへ行った。街角の教会に入り、ひとつの礼拝堂を覗(のぞ)き込むと、壁の上部にはめ込まれた《聖パウロの回心》と《聖ペテロの磔刑(たっけい)》があった。別の教会では《ロレートの聖母》を見た。

 どれも巨大な油絵で、暗がりの中で強烈な光を浴びる群像が描かれていた。馬の尻や人間の足や白い手先が画面から迫り出し、聖人や聖母子は生身の人間そのものだった。

 今回の本はカラヴァッジョのデビュー作《聖マタイの召命》を読み解こうとする一冊。ミラノからローマへ出てきた若い画家は、幸運にも大きな教会の礼拝堂のために本作を描き、一挙に有名になった。時は1600年、宗教改革に対抗するカトリック改革の只中(ただなか)である。カラヴァッジョの鮮烈な写実主義が、宗教美術の刷新を目指す改革の精神と響き合い、バロック美術がはじまった。

 この絵には、5人の男たちが卓を囲む薄暗い空間に、一筋の光とともにキリストが入ってきた場面が描かれている。今まさにマタイがキリストの弟子として指名されようとしているのだ。ところが、5人のうちの誰がマタイなのかをめぐって、長年の論争があるという。

 著者はまずこの「マタイ問題」を提示し、時代背景、作者の伝記、主題の意味などを考えながら、絵を読み解いていく。礼拝堂内の光の効果や、鑑賞者が絵を見上げる角度など、現場で見るさいの勘所も重視される。10年前、あの場所で絵を見上げつつ、ぼくも静かに興奮していた。カラヴァッジョは「聖書の物語を日常で起こりうる現実のドラマとして表現」した、と著者は言う。人々はあの礼拝堂で、マタイにおきた神秘を自分のことのように体験するのである。

 最終章までたどりついた読者は、絵を見る体験を通じて、自らの運命を受け入れ、よりよく生きるための指針さえ得ることが可能だ、と気づかされる。遠い国の一枚の絵が、人生を支える杖(つえ)になりうるのだ。

 ◇みやした・きくろう=1963年、名古屋市生まれ。美術史家。神戸大教授。著書に『カラヴァッジョ』など。

読売新聞
2020年6月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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