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死に場所を求める男の無為の日々を変えた愚行と奇遇をめぐる物語
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
主人公のネイサンは五十九歳。長年勤めた損害生命保険会社を退職し、妻とも離婚した。おまけに小康状態ではあるが、肺がんを患っている。ポール・オースターの『ブルックリン・フォリーズ』は、〈静かに死ねる場所〉を求めてブルックリンに移り住んだ男の愚行と奇遇をめぐる物語だ。人生の終着点と見なしていた街に、予期せぬ冒険が待っている。
ネイサンは自らの過去を振り返り『人類愚行の書』を綴るほかには何もすることがなかった。無為の日々を変えたのは、甥のトムとの再会だ。トムは古書店で働いていた。七年前は前途有望の若者だったのに〈目からは輝きが消えていて、全身から敗北の空気が立ちのぼっていた〉。いったい何があったのか。ネイサンはトムの話を聞き、前科持ちで同性愛者の古書店主、美しき完璧な母親を意味するあだ名を付けられた人妻、沈黙を守る家出少女など、さまざまな人に出会う。
登場人物はネイサンをはじめとして、失敗した人ばかり。彼らの犯した過ちのほとんどは愛に起因している。だからといって無条件に許されるわけではない。そういう愚かさから逃れられない人間が、欲得ぬきで誰かを救おうとするくだりに惹きつけられる。
また、作中でトムが書いた「空想のエデン―南北戦争以前のアメリカにおける精神生活」という論文の話も興味深い。エドガー・アラン・ポーとヘンリー・デイヴィッド・ソロー。ほぼ同時代人だがアメリカ思想の両極にいる二人の作家は〈アメリカの可能性を信じると同時に、現実のアメリカがどうしようもなくひどいことになってしまった〉と考えていて、社会の外に出ることを欲したのだという。ポーの「ランドーの山荘」「アルンハイムの地所」(『ポオ小説全集4』創元推理文庫)、ソローの『森の生活』(岩波文庫)をあわせて読むと、オースターも同じ問題意識を持って『ブルックリン・フォリーズ』を書いたのではないかと思う。物語の後半でネイサンたちが滞在する宿屋も、考えるための場所〈空想のエデン〉なのだ。