76歳の農婦が書いた駄目な男のかなしい美しさ
[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「結婚」です
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1975年の大宅壮一ノンフィクション賞は、いわき市の76歳の農婦、吉野せいに与えられた。受賞作『洟をたらした神』は開拓農民の妻として開墾に明け暮れた日々の記録である。
確かな文体と短編小説のような切れ味を、大宅賞選考委員の臼井吉見は「芥川賞がふさわしい」と評し、開高健は「怖るべき老女の出現である」と書いた。
70歳を過ぎたせいに書くことを勧めたのは、夫の友人だった詩人の草野心平である。
せいの夫も詩を書いていた。理想に燃えて開墾生活に入ったはずが文学にのめり込み、少ない現金収入から謄写版を買って仲間と雑誌を作った。収穫した小麦を町に売りに行き、受け取った代金のほとんどを、心酔するカンディンスキーの芸術論の本に使ってしまったこともある。
生活のすべてがせいの肩にかかり、子らを育てながら来る日も来る日も畑に立った。せいも若いころは文学を志し、小説が新聞に載ったこともあったが、貧しい暮らしの中、書く時間などとても持てなかった。
転機となったのは夫の死である。せいの才能を知る草野に、今こそ書くべき時だと言われ、ようやくその文才を解き放ったのだ。
書けなかった歳月、せいは文学に生きる夫への怒りを抱えていた。だが、書くことでねじれた感情をほどき、夫を許していく。『洟をたらした神』には、どうしようもなく駄目な男の、無垢でかなしい美しさが、みごとに定着されている。