どのように死を受け止めるか
[レビュアー] 蜂飼耳(詩人・小説家)
イーユン・リーの小説は、初期の作品から読んでいた。その読書の履歴に『理由のない場所』も並べて考えたい。だが一方で、どうしてもそれは難しいと感じる。16歳の息子が自殺する。もうこの世にいない息子との対話というかたちで綴られている。
これが近年の作者の実体験に基づいた作品だと知れば、どのページにも見られる葛藤と悲しみには、まだ生々しさがあって(というより、生々しさがある気がしてしまって)辛い。いかなる状況に置かれるときも書くことを手放しはしない一人の書き手の姿がそこに見える。言葉とはなんだろう? 言葉を通して考えること、そして書くこととは、どういうことだろうか? 死者との対話は、原初的な劇や原初的な詩へさかのぼる。そこで初めて触れることのできる次元の言葉がある。
仮にニコライという名で呼ばれる息子との対話は、すべて母の心に浮んでは消えていく対話なのだ。たとえば「ときどき悲しくて書けなくなることがある。」と、母は明かす。ニコライはこう応じる。「ものを書くのは感じたくないか、感じ方がわからない人たちがすることだとずっと思ってた」。
母は訊ねる。「あなたはもう落ち着いたの?」「底に沈むようなことを意味するんだったら、そうだね。すっかり落ち着いた。沈殿した。」「沈殿したのは何なの。」「ぼくをめぐる、心をかき乱すようなことのすべて。いまは澄みきってる。混じりけなく完璧なんだ。望みどおりにね」。なんという悲しさだろう。肉体を失ったニコライが、言葉を通して、生きているように展開する。
いくつもの記憶がよみがえり、母はそれらを反芻する。幼いときの思い出、印象に残った言葉、息子が書いた物語や詩、息子が好きだった音楽やお菓子作り。最後の日、最後に別れた場所とその場面。記憶の数々は、ときには母を慰め、ときにはさらなる悲しみをもたらす。誰にも知らされることのなかった決断と実行をどう受け止めたらよいだろう。責めたり、問い詰めたりする言葉はなく、ある意味では、一人の人間の意思と決定が尊重されているようにも見える。
ニコライは「ママは言葉は不十分だっていつも言ってるよね」と、語りかける。「言葉は不十分。それはそうなんだけど、言葉の影は語り得ぬものに触れられることがある」と応じる母は、「フィクションはね、作り出すんじゃないの。ここで生きなければならないように、その中で生きなければならないの」と、きっぱりと述べる。息子に向けられた言葉だが、同時に、自分自身に対する確認の言葉でもある。ニコライとの対話のすべてはフィクションだという事実の中で、母はまた小説に向かうのだ。
イーユン・リーも、長男の死以前から自殺未遂を繰り返していると知れば、どうしても重苦しさに包まれる。生と死、そして言葉と烈しく向き合う時間が、この本をかけがえのないものにしている。