『夏の速度』
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日韓の矛盾をはらんだ関係にも似る 韓国の酒場で出会った「彼」との物語
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
舞台は約四十年前のソウル。日本の大学院を出たばかりの「僕」は、その地の大学で日本語や日本文化を教える客員教授となった。
とりたてて韓国に深い興味があったわけでもなく、韓国語もまだ覚束ないなかで、それでも学生たちに日本語で誘われるまま街に出た「僕」は、彼らの熱気や文化の違いに戸惑う。こんなに近い国であっても、たとえば食事の作法がまったく異なる。白磁や青磁を日本に伝えた国なのに、どこへ行っても食器はステンレスで、酒場の学生たちはそれを楽器として狂騒を繰り広げる。しかしその放歌高吟は必ずしも明るくない。軍事政権下で自由な物言いが禁じられているからばかりではなく、もっと根深いなにかを「僕」は感じ取る。
そんな酒場で「僕」は二つ年上のヨンチョルに出会う。彼は日本語はわからないが、流暢な英語を話した。出会いは偶然ではなかった。ヨンチョルは学生たちを通じて「僕」のエピソードのあれこれを知っており、明らかに「僕」に近づいてきたのだ。あるいは、学生に頼んで「僕」をこの酒場に連れてこさせたのかもしれなかった。
ヨンチョルはその後も「僕」を誘い、ソウルの街をあちこち案内してくれる。よそ者には普通入れないようなディープなところにまで。
しかしそれは親切や友情によるものだったろうか。「僕」は一度ならずヨンチョルのせいでひどい目に遭う。最後には一生のトラウマになるほどの。それもまた彼の狙ったことだったのかもしれない。
一体ヨンチョルとは何者か。誰であろうと、彼の「僕」に対する矛盾した態度こそ、当時の韓国の日本に対するそれではなかったか。日本語を話そうとしない彼は、しかしかつて日本語を学んでいた。
そこから四十年。昨今の情勢を見ると、「僕」とヨンチョルとの関係はいまだに両国の関係であり続けているように思われる。