グリコ森永事件、五つ子の誕生、大阪万博、元日本兵の帰還…昭和を活写する新しい物語――磯﨑憲一郎 著『日本蒙昧前史』

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日本蒙昧前史

『日本蒙昧前史』

著者
磯﨑 憲一郎 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163912271
発売日
2020/06/26
価格
2,310円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

死者たちのために

[レビュアー] 畠山丑雄(作家)

『日本蒙昧前史』は長さは250ページ程度であるが、量のある作品である。グリコ森永事件、五つ子の誕生、大阪万博、元日本兵の帰還等、作中の出来事は多く、当然登場人物も多い。これらの出来事はゆるやかなつながりはあるものの、最後まで一つの流れに収束されることはない。人々は隷従を拒むように、ただそれぞれの場所でそれぞれの生を生きている。キャバレー通いをする総理大臣も、割腹自殺を遂げる文豪も、帝政ロシア出身の300勝投手も一人の人間である以上の特権は与えられていないし、一人の人間であることの特権は奪われていない。

 だからこそ細部が作品を駆動していく。五つ子の父親が実生活上で突き当たる些末で死活的な問題や、万博の用地買収における行政上の滑稽なまでの難航ぶりや、日本兵が取り残された島の充実した孤独の中で身につけていく生の技術など、圧倒的に緻密で、ときに煩瑣に思えるほどのディテールがそのままドラマとなる。細部の充実により、人間の生に細部などないという当たり前の事実が改めて新鮮な驚きを伴って迫ってくる。

 語り手は史実を与えられつつも、もう一度素朴に、人々の愛しいほどの蒙昧ぶりについて、語りながら考えている。ある出来事を一つの意味や正しさに回収してしまうことに否をつきつけながら、時折確信犯的に語り手の顔を出して見せ、怒りや困惑をあらわにし、さかしらな中立性の詐称や中学生じみた不感症自慢にも否をつきつける。そういう意味で作中の昭和史上の有名事件は、既に起こってしまったことの記録ではなく、今まさに起きつつあることの語りになっている。読み手はミステリーに射倖心を煽られるのではない。生成の現場に居合わせているという高揚によって、自らの目を先へ先へと走らせていくのである。すると、語り手の声によって、誰も触れたことのないはずの登場人物の心のうごきや、誰も見たことのないはずの景色が、正しく生き生きと浮かび上がってくる。五つ子の父親が我が子を抱きあげたときの「赤ん坊の背中から匂い立つような温もり」や、万博事業所室長が、強く搾られた台拭きから猪口に滴り落ちた「泥水めいた灰色の雫」を一気に飲み干すときの味や、日本兵が銃撃戦の最中に催す「腸が破れたかと思うほどの」便意が、読むもののからだにこたえてくる。

 語り手は最後まで息切れをすることはない。驚くほどの肺活量で、いのちを吹き込み続ける。それが誰の声なのかなどということは、もはや取るに足らない問題だろう。ただ声によって過ぎ去った出来事や人々が、もう一度生きられる。語り手が引き受けようとしていることはほとんど鎮魂に近い。しかしこの作品は一つの国の、一つの時代のレクイエムに足りえているなどと要約し了解してしまえば、語り手はまた否をつきつけるに違いない。おそらくは声のない、死者たちのために。

河出書房新社 文藝
2020年秋季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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