なぜ心を病んでしまうのか? 一つの「理想モデル」に固執する社会のヤバさ

対談・鼎談

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斎藤環×與那覇潤・対談 トイレットペーパーはなぜ消えたのか?

[文] 新潮社


左から與那覇潤さんと斎藤環さん

斎藤環×與那覇潤・対談「トイレットペーパーはなぜ消えたのか?」

なぜ生きづらさを感じるのか? なぜわかりあえないのか? 人間関係とコミュニケーションのあり方を問い直し、第19回小林秀雄賞を受賞した対談本『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』。「ひきこもり」を専門とする精神科医の斎藤環さんと、「重度のうつ」(双極性障害II型)をくぐり抜けた歴史学者の與那覇潤さんの両著者が、日本社会が抱える問題点を語り合った。

エビデンス主義の限界

與那覇潤(以下:與那覇) この春の新型コロナ騒動でトイレットペーパーがあっという間に売り場から消えたのを見て、改めて本書で論じた「うつ病社会」の問題点が浮き彫りになったなと感じました。
 医療の専門家が「エボラ出血熱のような致死率の高いウイルスではなく、お年寄りや病人以外は、過剰に恐れる必要はない」、各種のメディアが「トイレットペーパーは国内で生産しており、供給が止まることはない」とエビデンス(証拠)を示して説明しても、人々のパニックは収まりませんでした。

斎藤環(以下:斎藤) 本の中でも「エビデンス主義」の限界について何度か論じましたが、まさにその通りの展開になりましたね。

與那覇 個人のメディアリテラシーをいくら高めても、彼らが「私は冷静で優秀だから、正しい情報を知っている。しかし他の奴らはバカだから、パニック買いをするに違いない。だから在庫がなくならないうちに買いに行こう」とする態度をとるかぎり、結局は売り場から消えてしまう。つまり社会全体に他人を見下し、互いを信じない風潮が広がっていることこそが、真の問題だと思います。

斎藤 「情報」はあるけど「対話」がない。対話をする機会や空間がないから、「もし足りなくなっても、近所でちょっと融通し合えば大丈夫だろう」という発想が出てこずにパニックになる。
 新型コロナ騒動で露見したのは、これは日本だけの傾向ではなく、全世界的なものであるということです。むしろ欧米の方がもっと激しいパニック買いが起きていました。

與那覇 ぼくの体験に照らすと、世界中で社会の雰囲気が「広く薄いうつ」に陥っているようにさえ感じます。
 うつ状態ではすべてに悲観的になり、他人を信じることができません。出演者が大笑いするバラエティを見るだけで、「俺らはこんなに楽しいぜ。うつのお前はそうじゃないけどな」と言われたように感じてしまう。「病気だと知られたら、誰もが自分をバカにしてくる」と孤立感を深め、ますます人と話せなくなる。自分が他人を信じないために、「どうせ向こうも同じだ」とする思い込みを増幅させて猜疑心の連鎖を招く現象が、うつ病以外の人にも拡散していませんか。

斎藤 社会全体が「うつ病化」する中で、どうすればお互いを信じ、安心できるコミュニケーションを回復できるのか。それが本書の大きなテーマの一つでした。
 先ほどエビデンス主義の限界という話をしましたが、與那覇さんが歴史学者として日中韓の「歴史認識問題」に取り組んでいた時の話が印象的でした。

與那覇 お恥ずかしい。あの頃は多くの学者が、国境を越えて「同意」できる歴史の語りを積み重ねることが解決につながると説いたのですが、実際には事実関係を詰めていくほどに一致できない対立点が増え、逆効果に終わりました。
 後から思えば、同意ではなく、互いに「共感」できるルートを作れば良かった。「同意なき共感」を目標とすべきところを、「共感なき同意」ばかりを求めた結果、完全に袋小路にハマってしまった感があります。

斎藤 精神科の臨床でもエビデンス主義の限界を感じます。要するに精神療法やケースワークはエビデンスがはっきりしないことが多いので、どうしても投薬治療に偏りがちになる。しかし、本の中でも説明したように、抗うつ薬は確かに「効く」けれど、それだけでは「治しきれない」。実際の治療は、処方する医者の問診やソーシャルワーカーの生活支援など、数値化できない個別的な要素に負うところが大きいわけです。

與那覇 医師が「効果にエビデンスのある薬だから」と投薬に甘えてしまえば、人間的な働きかけやケアを怠ってしまう。患者も「必ず効くはずだから」とサプリのように服薬しながら無理に働き続けることで、必要な休息をとれず、自殺など深刻な事態を招いてしまいます。

過剰適応という病

斎藤 本書の第八章で、電通で働いていた高橋まつりさんの過労自殺事件について論じています。そこでも事件の原因を「残業時間」という安易なエビデンスに還元してはならないという話をしましたね。労基署が認定した時間外労働が直前の一か月で月一〇〇時間あまりだったことを考えれば、彼女を追い詰めたのは残業時間だけでなく、むしろ人間としての尊厳や承認の問題だったはず。そこを丁寧に見ていく必要があると論じました。

與那覇 注目された彼女の生前のツイッターにしても、痛切なのは「今までの苦労は何だったのか。約束が違う!」という思いです。苦学して東大に進み一流企業に入ったのに、まったく充実感を得られない環境しか待っていなかった。
 そうした人生への絶望を見ず、「時短」の錦の御旗としてのみ利用した政治家や有識者は、あまりに軽薄ですね。

斎藤 私が連想したのは皇太子妃時代の雅子さまです。第一線の外交官としてバリバリ活躍していたのに、「日本一の旧家」に嫁いだら、期待されるのは子作りと宮中祭祀だけ。それまで築いてきたキャリアはまったく尊重されず、適応障害になってしまいました。
 優秀で真面目な人ほど、周囲の環境や期待に無理に適応しようとして心を病んでしまう。

與那覇 だから電通事件の後、「真面目な頑張り屋だった」として同情を誘おうとする報道には、強い違和感を覚えました。「頑張り続けない人間は認めないぞ」という世間の認識こそが彼女を追いつめた可能性を省みず、なおも「頑張り屋」を美徳として強調する。むしろ頑張らず、早めに医者にかかって休職していれば、自殺せずにすんだはずなのに。

斎藤 よく殺人事件や死亡事故のニュースでも「明るく快活な人でした」などのコメントが出ますが、それを聞くたびに、「暗いやつだったら死んでもいいのか」と複雑な気分になってしまいます。

與那覇 世の中がどのような人間像を期待するかによって、心の病気のあり方も変わってくる。であれば、個人に投薬治療を施すだけでは解決にならない。自己と他者、個人と社会との間にある関係性の病理について考えなければならないというのが、本書の最大の主張です。

斎藤 それにもかかわらず、いまだに精神医学界では、心の病は脳の器質的な疾患であり、時代や社会の影響を受けるなんてあり得ないという考え方が主流です。でも現場の精神科医はみんなそうではないと気付いていると思いますけどね。
 たとえば、いわゆる“新型うつ”の問題があります。昔のうつ病は「真面目な人」がなるものでしたが、新型では「不真面目な人」が増えていると言われます。

與那覇 「新型うつ病は若者の怠けだ」と、患者を批判する医師までいますね。

斎藤 しかし、うつ病が過剰適応の病だとすれば、昔も今も本質的には変わっていないと考えられます。つまり、高度成長期は「責任感が強くバリバリ働く人」がロールモデルだったから、それに過剰適応して病気になってしまった。今ではむしろ「コミュ力が高く軽やかに遊べる人」がカースト上位に位置付けられるので、それに過剰適応してしまう人が病気になっているというわけです。

與那覇 新型うつ病バッシングの後に来た「発達障害バブル」について、本書が指摘した問題とも重なります。「コミュ障ゆえの鬼才」を無理にでも演じないと、社会で承認を得られない現状がある。

斎藤 一つのロールモデルに無理に適応するのではなく、複数のロールモデルの中から自分に合ったものを自由に選択できるようにしなければならない。つまり社会の多様性が大事ということです。

対話という処方箋

與那覇 どうすれば多様な人間性を持つ人々が、社会から一つの型を押しつけられることなく、自らの個性に尊厳を持てるようになるのか。いかにして互いに信頼を取り戻し、安心して生きられる世の中を目指すか。その処方箋として本書が提示したのが「対話」でしたね。

斎藤 より具体的に言えば、私は「オープンダイアローグ」という精神療法の視点から、與那覇さんは「新しいコミュニズム」という視点から、それぞれ個人と他者の新しい関係性のあり方、コミュニケーションの仕方を提案しています。精神医学と歴史学という全く異なるルートを辿りながらも、期せずして対話という同じ処方箋に辿り着いた感がありますね。

與那覇 対話と言うと、日本では「俺もお前も同じ人間。平場で語り合えばわかりあえるはず」という同調圧力がかかりがちですが、われわれの提案する対話はそれとは正反対のものです。

斎藤 同じであることを前提にするのではなく、むしろお互いが決定的に異なることを前提にする。だからこそ対話する意味があると考える。先ほどの與那覇さんの言葉で言えば「同意なき共感」を求める対話です。
 オープンダイアローグの場合は、統合失調症の人が妄想を語っても、それを否定しないで、その主観的な世界を尊重します。同意はしないけど、共感的に聞く。すると不思議なことに、その妄想自体が溶けていく。

與那覇 対話の鍵を握るのは安心感と、「適切な相互依存」です。他の人と違っても大丈夫、バカにされたり排除されたりしない。そういう安心感がなければ、そもそも口を開くことができません。
 安心感があって初めて、「困っている。助けてほしい」と言い出せる。逆に不安や猜疑心に憑かれていると「一人だけで解決しなくては」という強迫観念から、他人に借りるよりも自分が買い占めておこうとする社会になってしまいます。
 そうした不幸な「自立」のあり方に、本書は明快にノーと言っています。依存自体は悪ではなく、大事なのはそこに尊厳が、信頼関係があるかなのだと。

斎藤 最近は自立の捉え方もだいぶ変わってきました。たとえば脳性麻痺の当事者研究で知られる熊谷晋一郎さんが「自立とは依存先を増やすことである」と言ったり、臨床心理士の東畑開人さんが「依存していることすら忘れた状態にあるのが自立である」と言ったり、他者への依存を前提とした自立という考え方が広まっています。
 本書で提唱する対話主義が、そのような自立と多様性の流れを後押しするものになればと思います。

新潮社 波
2020年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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