コロナ禍の今こそ読むべき一冊! 感染症大流行の危機を描いた『鹿の王』、その後の物語『鹿の王 水底の橋』

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鹿の王水底の橋

『鹿の王水底の橋』

著者
上橋, 菜穂子, 1962-
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784041092927
価格
880円(税込)

書籍情報:openBD

コロナ禍の今こそ読むべき一冊! 感染症大流行の危機を描いた『鹿の王』、その後の物語『鹿の王 水底の橋』

[レビュアー] 東えりか(書評家・HONZ副代表)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:東 えりか / 書評家)

 今は2020年4月8日。ちょうど日付が変わったところだ。先ほど安倍晋三内閣総理大臣から緊急事態宣言が発出された。周りはシーンと静まり返っている。

 新型コロナウイルスによる感染症の増加が止まらず医療崩壊に陥りかねない事態であるため、東京、神奈川、千葉、埼玉、大阪、兵庫、福岡の7都府県を対象に5月6日のゴールデンウィーク終了までを条件に発出された。

 2019年12月「原因不明のウイルス性肺炎」として最初の症例が武漢市内で確認されてから、あっという間に中国全土に感染が拡がった。わずか数か月で世界中に伝播したこの疫病は、3月にはパンデミックであるとWHOが認め、2020年4月1日現在、180の国と地域に渡り感染が報告されている。

 最初は普通の風邪の症状だ。だから油断していた。見くびっていた。それゆえ対応が遅れた。罹患者の8割の症状は軽い。しかし重症になったとたん死亡率が跳ね上がる。他人とは会うな、マスクをしろ、人込みには行くなと指示され、混乱した民衆は買いだめに走る。感染した人は差別され、情報を求めた末にデマに踊らされる。最前線の医師が命がけで治療を続けても医療崩壊は起こってしまう。これが地球上すべてで同時進行している。

 今までにSF小説やファンタジー、あるいは過去の事例を基にした時代小説などでパンデミック小説はいくつも読んできた。まさか実際に起こり小説では到底考えつかないほどの冷酷な現実を知るとは思わなかった。

 上橋菜穂子の『鹿の王』(角川文庫)は2014年に上梓されたハイ・ファンタジー小説である。発売当初より大反響を呼び、翌年の本屋大賞と医療小説大賞を同時受賞。子供から大人まで夢中にさせた。

 この物語を構築しているベースのひとつに医療がある。謎の感染症「黒狼熱」が持つ秘密を解くミステリーは、医療関係者や研究者たちも舌を巻くほど感染の様子や経路、治療法まで緻密に組み上げられている。

『鹿の王 水底の橋』の解説依頼を受け、改めて『鹿の王』を読み始めたのは2020年3月初旬。最初に読んだ時から5年余りが経っており、正直にいえば主人公であるヴァンと拾い子であるユナの印象が強く残っていたのは否めない。

 しかし読み進めるうちに私は震え上がった。現実社会はパンデミックの真っ最中で、いつ自分が罹るかと世界中が恐れ戦いている。治療薬もワクチンもなく、対症療法で様子を見る以外にない。中国での医療崩壊を他人事のように見ていたヨーロッパもアメリカも、あっという間に感染は爆発した。

 手のなかにある『鹿の王』の世界もまた、謎の病気に怯え、治療法を探している。だが、この物語にはヒーローがいる。彼が何とかしてくれるだろうという希望が見える。悲しいことに、現実にはヒーローどころか後手後手にまわる為政者たちの姿しか見えない。ファンタジー小説の『鹿の王』はまるで疫病の参考書のようにリアルに迫ってきたのだ。

『鹿の王 水底の橋』は「黒狼熱大流行」の危機が去った後、黒狼熱の謎を解き明かしたオタワルの天才医師ホッサルの施療院〈小さき者たちの巣〉から始まる。助手で恋人のミラルと従者マコウカンと有能な医術師五人とともにこの施療院を運営している。

 以前、黒狼熱患者の治療を行った際、手伝いに来ていた清心教医術の祭司医、真那から幼い姪の亜々弥の病気治療を助けてほしいという懇願を受け、ホッサル一行は彼の故郷であり清心教医術の発祥の地、安房那に同道することとなる。真那の父、羽羅那は安房那領主でありながら清心教祭司医の上師でもある。可愛い孫娘のため、清心教医術とは相いれないオタワル医術の意見を求めていた。

 ちょうどその時、アカファや安房那を治める強大な帝国「東乎瑠」では、二人の候補の間で次期皇帝争いが始まっていた。その結果いかんではオタワル医術は禁止、国を追放されてしまうかもしれない瀬戸際にあった。

 東乎瑠の大貴族たちが年に一度、集まる一大行事「ミンナルの鳴き合わせ、詩合わせ」が今年は安房那で行われる。この時期にホッサルを呼んだ安房那侯の意図はどこにあるのか。権謀術数、様々な思惑が密かに蠢きはじめるなか、人を治療するとはどういうことなのか、とホッサルは悩み始める。命を助けるためには手段を択ばないオタワル医術と、心の安寧に力を注ぐ清心教医術とは相いれないものなのか。

 亜々弥の関節痛は女性には稀な病気だったため清心教医術でも発見が遅れ、科学的な解析を行うオタワル医術でも処方を間違ったが、そのことが医学の進歩を促したともいえる。

 興味深いのは清心教の原点である「花部」の医術だ。古来、どこの国でも病気を治すために行われてきた呪術のひとつとして医療は存在していた。何万回、何億回と延々と繰り返されてきた植物や動物から知りえた薬効は、現代医学でも活用されている。

 20年以上前のことだ。インフルエンザの特効薬を試験中だという話を聞いた。原料の一つに漢方薬の八角を使うという。中国奥地に生える非常に特殊なダイウイキョウの一種で、風土病などに特異的に効く植物などを探すある種のプラントハンターを擁するアメリカのベンチャー企業が見つけてきたらしい。

 それが数年後、インフルエンザ治療薬、タミフルとなって発売された。漢方と西洋医学が見事に融合した結果である。

 私自身も若い頃、インドネシアの小さな島で食あたりになり苦しんでいたところ、その地の医師兼呪術師に治療してもらったことがある。飲み薬を断ったらマッサージを施してくれた。何かの草で腰のあたりをたたき、全身で下腹部の反対側を揉み上げてもらうと、下半身が火照り、吐き気も便意も徐々に消えていった。多分、日本の鍼治療に近いものではなかったか、と今ではそう思っている。

 作家であると同時に文化人類学者でもある上橋菜穂子は、異世界のファンタジー小説の中で科学と精神のつり合いを説いた。身体が頑健であっても心の病は忍び込むし、終末を迎える日々であっても、安らかに暮らすことができる人もいる。

『鹿の王』が世に出てから文庫化されるまでの3年の間に上橋は母を肺癌で亡くした。発覚から亡くなるまでの2年間は母の看病と介護に没頭したという。その折、聖路加国際病院リウマチ膠原病センターで西洋医学と東洋医学の両刀を使って治療する津田篤太郎医師に出逢いその治療によって母親のQOL(クオリティオブライフ)は格段に上がったようだ。

 この二人の書簡集『ほの暗い永久から出でて』(文藝春秋)は刺激的な本だった。人間だけでなく生命を宿す者すべてに対し、何のために生きるのかという永遠の課題を解き明かそうとしている。この中で上橋が医療の根源を語っている部分に胸を突かれた。

 ──病んだ他者をたすけられる技術は、結局、自分自身をもたすけるのだ、という思いがあって、人は熱心に医学を生み、洗練されていっているのかもしれませんが、そこにあるのは、自分の子でなくても、群れ全体を守ることが、やがては、自分の遺伝子の生き残りにつながるというような実利的な意識だけでなく、やはり、他者の生病老死を目の当たりにして、放ってはおけない、そして、他者の生病老死に、自らの生について思わざるを得ない、人の心のうごきも関わっているように思うのです──

 新型コロナウイルスによるパンデミックもいつかは必ず終息を迎える。喫緊の問題はいかに患わないかだが、遠くない将来、人類すべての問題として、その世界をどう生きるかを模索しはじめなくてはならないだろう。

「鹿の王」シリーズはきっと何十年先も読み継がれていく。そのとき、この文庫解説を読んで「こんな時代もあった」と思い出してほしい。物語のなかに永遠の真理が隠されているのだから。

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コロナ禍の今こそ読むべき一冊! 感染症大流行の危機を描いた『鹿の王』、その…

▼上橋菜穂子『鹿の王 水底の橋』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000316/

▼シリーズ特設サイトはこちら
https://promo.kadokawa.co.jp/shikanoou/

KADOKAWA カドブン
2020年7月28日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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