世界を少し違って見せる 形のないものを表す言葉
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
『サキの忘れ物』の最後に収められた「隣のビル」に〈何も考えたくなかった。できればこの場からしばらく消えたかった。意識を一時的に消滅させ、腹も空かず排泄もしない存在として、二か月ほどいなくなりたかった〉という文章がある。まさにこういう気分のときに本書を読んだ。上司に難癖をつけられた会社員のささやかながら爽快な冒険を描いた「隣のビル」など収録作は全九編。ページをめくっているうちに、散らかった部屋のようだった思考が、静かに整理されていく。
表題作の主人公・千春は、高校をやめて病院に併設の喫茶店で働いている。店の常連客にいつも同じぐらいの時間にやってくる女の人がいた。ある日、女の人は読んでいた文庫本を忘れて帰ってしまう。それはサキという外国の男の人が書いた短編集だった。十八年生きてきて最後まで読めた本は一冊もなかったのに、千春はサキの文庫本を買う。
一冊の本が人生を変える小説だ。といっても、本の内容に感動して変わるわけではない。サキは短編の名手として知られるが、作風はユーモアに富みつつも辛辣。千春がはじめに読んだ一編は、牛専門の画家が隣家の庭に乱入した牛を追い出そうとして失敗する話だ。〈声を出して笑ったわけでも、つまらないと本を投げ出したわけでもなかった。ただ、様子を想像していたいと思い、続けて読んでいたいと思った〉というくだりがいい。千春が自分の実感と発見を正確に言語化しようとしているから。読書の感想から友達に対するモヤモヤまで、形のないものを表す言葉が得られると、世界が少し違って見えるのだ。
言葉に加えて想像力があれば、転んで膝にできた傷を「王国」にすることも、「行列」を不思議な迷宮にすることも、「隣のビル」を会社という監獄からの脱出口にすることもできる。人間ってしんどいけれどもおもしろいなと思わせてくれる。