対象に肉迫する徹底した取材と緻密な文章が高く評価される新田次郎と吉村昭 ふたりの文豪が明かした創作の極意

対談・鼎談

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【「波」名対談撰】新田次郎×吉村昭・対談 取材・事実・フィクション

[文] 新潮社


吉村昭氏と新田次郎氏

【名対談撰】新田次郎×吉村昭・対談「取材・事実・フィクション」

地道な資料探索や現地調査を活かしたリアルな作風で、今なお読者が絶えない作家・新田次郎と吉村昭。山岳小説、戦記文学とそれぞれの分野のパイオニアとなった二人が語った創作の過程とプライドとは? 以下、読書情報誌「波」(1970年5・6月号)に掲載された対談をお届けする。

 * * *

執筆の動機

新田 今度の『陸奥爆沈』(一九七〇年五月新潮社刊。現在は新潮文庫)では、聞き込みは、何人ぐらいに会われたのですか。

吉村 人数は記憶しておりません。『戦艦武蔵』のときは、日記をつけておりましたのでわかりますが、執筆を終えたとき、八十名を越えていました。今度は百名前後と思います。
『陸奥爆沈』は少し変った形式をとっていまして、現在の私が主人公になっています。私には戦争を書きたくないという気持が一方にあります。なぜかと言いますと、戦争は過去がとかく美化されがちであるのと同じように美しいものとして懐古される傾向が一部にあって、自分の書いたものも、そうした眼にさらされ読まれることが苦痛なのです。昨年の早春にたまたま人に誘われて柱島というところへ行きましたが、その付近の海面で「陸奥」が爆沈したことを知り、殉職した将兵の死体を焼いた近くの無人島にも案内されました。その荒涼とした島にあがった時、妙な気分になってしまいまして、つまり歴史がひとつうずもれてゆく、やはりこれは書いておかなくてはいけないという気になって、それで調査を始めたわけです。
 調査に七カ月、執筆に六カ月を費やしましたが、作品の形式も私自身が陸奥爆沈原因をさぐってゆくという方法をとりました。
 その間、思いがけない事実にぶつかりましたが、輝かしい存在であるはずの日本海軍の歴史の中で、「陸奥」を含めて、軍艦の火薬庫爆発が合計八件もあったことは意外でした。しかも「陸奥」以前の七件の火薬庫爆発事件中五件は、乗組員の過失又は放火です。あとの二件にしても乗組員の行為である疑いもあるが、死者が余りにも多かった等の理由で確認がつかめなかったにすぎないのです。「陸奥」の場合も、或る下士官がやったとしか思えないのですけど、軍艦という一種の巨大な兵器、その器の中に多くの人間が人間臭く生きていたということに興味を感じました。
 火薬庫爆発に関係した水兵たちは、なにか裸電球の下でひざを抱いてうずくまっているような、もの悲しい姿に思える。一人残らず下級の水兵たちで、虚栄心や金銭欲やノイローゼ気味であったため事故をひき起した。そういった水兵たちは海軍という組織の中では生きていけなかった人間たちなんですね。その水兵たちの人間臭さが、筆を進めさせた原動力になったように思えます。

新田 私が聞いた話だと、「陸奥」のある下士官が上官に非常に怨みを抱き、自分の身を犠牲にして、怨みを返してやろう、そういう気持で火をつけたって聞いたんですがね。いろいろなデマが飛んでいるわけですね。

吉村 新田さんのおっしゃるような解釈が圧倒的ですが、それは事実とちがっています。上官が兵隊を虐待したからだというのは、戦後になってからの非常に類型的な解釈ですね。「陸奥」の場合は、その下士官が盗みの嫌疑で上官から訊問を受けた。下士官は否定したが、盗みの事実は確定的なので、爆沈した日の朝、呉にいた戦艦「大和」の法務官に大尉と上等兵曹二人が報告に行った。その間に「陸奥」は突然爆沈してしまったのです。こうしたことから考えられることは、犯人が処罰をまぬがれぬとさとって、自暴自棄となり火薬庫に放火したのではないかと推測される。そして査問委員会が調査をつづけてゆくうちに、下士官の放火説を裏づける事実が続続と出てきたのです。

新田 スパイだという説がありましたね。スパイ説はどうですか。

吉村 一部の専門家にはそうした意見を述べる人もいましたが、証拠はありません。当時の査問委員の一人も、私に犯人は生きているように思うという。つまりスパイ説なんですね。私はその言葉が気になって、思いきってその下士官の生家のある村にもいってみましたが、村の人にきくと家には弟さん夫婦だけで、下士官は戦死したと言っていました。ただ「陸奥」が爆沈したあと、憲兵が村へ入ってきて、その家を取り囲んだそうです。生きているかいないかわかりませんが、私は生きていないと思います。
「陸奥」の爆沈は世界の軍艦事故中最大の事故なんです。千四百余名乗っていたのですが、千百何名かが死亡してしまった。それほど多くの死者を出した事故も戦時中の機密保持のために闇から闇に葬られた。たとえば、爆沈海面近くで漁をしていた漁師は、非常な濃霧だったのでドカンという爆発音ぐらいしか聞えなかったのに、三十名ばかりが捕まって、近くの島に軟禁状態に置かれたりしました。また生き残った三百何名の陸奥乗組員も爆発後ひそかにトラック島へ運ばれて、全員が激戦地へ放たれました。戦死が相ついで終戦時に日本の内地の土を踏むことができたのは、わずか六十名ほどです。

新田 その辺は『戦艦武蔵』と似ていますね。

骨を書く

新田 しかしいい仕事をされましたね。とにかく七カ月もかかって資料を集めて書き残すということは、作家に与えられた使命のひとつですね。そういうことを作家はやっていかなければいけないんじゃないですか。

吉村 私は、事実に忠実でなければならぬ作品というものは小説ではないと現在も考えています。『戦艦武蔵』を書く時も、事実に忠実でなければならないというひとつの宿命があるため、小説として書く気にはなりませんでした。が、また一方には終戦の日から胸の中にわだかまっていた戦争というものを思いきって吐き出したいという気持もあったし、それには戦艦「武蔵」は恰好の素材とも思えて、その点で自分の内部ではずいぶん葛藤があった。しかしだんだん考えているうちに、どうも戦争の事実というものは単なる事実とはちがうと思うようになりました。平和時では人を殺せば最大の悪として法律的にも極刑の対象になるが、戦場では、多くの人間を殺せば殺すほど賛美される。つまり普通の意味での事実とは異なって、戦争の事実は虚構の領域にふみこんでいるものではないかというようなことを考えたのです。こじつけかもわかりませんけど、そうした考え方が筆をとる上でのひとつの救いにはなりましたね。

新田 私はあなたが、『戦艦武蔵』を書いて、こんど『陸奥』を書かれたのは、当然ななりゆきのような気がしていますね。というのは、あなたのいちばん最初に書いた『青い骨』でしたか……。あれは非常にいい作品だったけど、あのころから、あなたの小説には必ず死が出てくる。異常と思われるほど骨が出てきて、不思議な作家だと思っておったんですけど、骨の歴史を考えながら、骨を見詰めているわけなんですね。あなたの当時書いた小説は全部……。ですから、『戦艦武蔵』にしろ、『陸奥』にしろ、やはり海の底に沈んでしまった骨を見詰めて、その歴史を書こう、そういう気持がずっとあなたにあったんじゃないかと思います。

吉村 自分にはわかりませんが……。新田さんにいわれて気づいたことですが、冒頭で、無人島に立ったときの描写で、骨を書きました。遺体を焼いた跡だと案内の人に或る個所を指さされ、骨片らしいものを眼にとめてひろってみたら、ただの貝殻でしたが……。いずれにしても、その無人の島で多くの死体がひっそりと焼かれたということが、書こうという動機になったことは事実です。

新田 結局、人間を書くことは骨を書くことだということなんですね。有機物は全部なくなって、最後は、骨ですよね。だから、その骨に対して語りかけたり、質問したりというのが、あなたの小説じゃないかと思います。
 日本は酸性土壌が多いから、骨が残らない。たまたまアルカリ性の粘土質の土壌の中に埋没された古代人の骨格がそのままの形であらわれることがある。二、三年前に長野県の佐久で発見された子供の骨は、粘土質の山くずれが起きて、たまたまその下で遊んでいた子供が生き埋めになったもの。その骨がそのまま発見されたんですよ。だから山くずれ遭難第一号というわけですかね。

吉村 その山くずれはいつごろなんですか。

新田 そこに甃器という土器が発見されたから、藤原時代と推定されるわけです。その骨をもしあなたが見たら、そばにあった甃器を見て、藤原時代ある地方に山くずれがあって、子供が一人死んだというすばらしい小説を書くと思うんですよ(笑)。
 私も骨にあったときはぎょっとしますね。昭和三十二年ですか、沖縄気象台にレーダーを取りつけるその位置決定に沖縄へ行ったとき、ちょっとした丘を歩いていたら、まだ防空壕がそのまま残っていましてね。藪の中をあちこち歩いていたら、足を踏みはずして壕にすべり落ちた。そしたら、そこに茶色がかった骨があってね。私はそれを拾って、共同納骨堂に納めに持っていったんですけど、その骨にあったときになんともいえない気持になりましたね。こわいというんじゃなくて、防空壕の中で敵弾を受けて死んだ人の姿をその場で思いえがきました。穴のあいた鉄かぶとがあったりして……。

取材ということ

新田 吉村さんが「月刊ペン」に書かれた『戦艦武蔵』の取材ノートというの、ずいぶん面白いもので、ぼくは感心して読んだ。あれを読めば、作品と同じくらいの迫力を持っていますけど、あれはあなたの生の原稿をそのまま載っけたのか、それとも書き直した取材ノートですか。

吉村 もちろんそうです。造船業界の小さな雑誌がありまして、そこに七十枚ぐらいまで書いたときに、小説を書き始めたわけです。その雑誌をやっていた友人が、ジードの『贋金づくり』には「贋金づくりの日記」というものもあるのだから、両方並行していったらどうだっていうんです。私とすると、事実に忠実でなければならぬものは書きたくないという意識もあったものですから、小説は書かずに、取材ノートだけで終らせようという気持も強く、取材日記を書き進めていたのです。

新田 そうすると、「月刊ペン」に発表されたのは、生のノートを整理したものであって、生の取材ノートではない……。

吉村 生のノートといっていいかもわかりません。

新田 生のノートですと、もっと感心しちゃうな。最初からまとまっていて、きちんきちんと要点をつかんで書いている。なぜ感心したかというと、私の取材ノートは実にでたらめで、あっちに飛びこっちにもどり……。

吉村 ああそういう意味ですか、それはもちろん整理して発表したものです。手探りでいろんなことを知ってゆく過程を書いていったのですが、調べていった経過はあの通りです。

新田 あなたの取材のしかたは、ある方向に一直線につっこんでいくいき方ですね。ちょうど金鉱を鉱脈――ツルというんだけど、ツルに沿って掘り進んでいくようなやり方だ。
 私の場合は、鉱脈の本筋をついていくうちに、いつのまにか坑道の枝脈に入ると、そこにどんどん入って行っちゃって、帰ってこれないことがあるのです。そして、ついには、枝脈のほうがおもしろいということになって、枝脈を書いたこともあります。

吉村 そういうこともあるでしょうね。ところで調査をしても作品の中で使えるのはその中のせいぜい二割ぐらいですね。

新田 捨てる場合のほうが多いですね。話じょうずの人に会ったときと、そうでないときと、それから話じょうずでも、マイペースでべらべら喋られちゃって、全然自慢話で、小説のネタにならないということもありますね。一日取材してもなにもならないことがある。

吉村 作り話をする人もいますね。今度の場合もそういう人にぶつかりました。「陸奥」が爆沈した時刻には猛烈な濃霧だったのですが柱島に行きましたら、その瞬間を目撃したということで有名な老人と会いました。「大きな軍艦がゆっくりとコケタ(倒れた)」という。「コケタ」という言葉に実感があって、私はその話を信用したのですが、その後調べを進めてゆくうちに、その島からは絶対に見えなかったことがわかりました(笑)。

新田 嘘は直感ですぐわかりますね。しかし言葉少なに、ぼっつりぼっつり話して、あのときはつらかったと感動をこめて、思い出すような目をしたときなんか、ああ、この話はほんとうだったなあと思いますね。

吉村 戦艦「武蔵」の建造に従事した技師の一人が、武蔵という巨艦を造ったのは平和をねがう気持からだったと言っていました。つまり強力な戦艦を持てば相手からの攻撃を受ける心配はないんだと。不愉快になりましたね。軍艦は兵器です。より多くの人間を殺すことを目的とした構築物で、平和とは相反するものです。戦後になると、そのようないい加減なことを口にする人が多く出るのですね。

新田 武装平和――原爆をもつことは平和だというのと同じ理論ですね。

作品化の過程

吉村 多くの事実の中から主題を生かしてくれる事実のみをすくいとって、作品化する方式。新田さんの『富士山頂』を読んでもそう思うのですが、この場合、新田さんの分身らしき人物が主人公であるし、考えようによっては私小説の範疇に入るかもわからない。
 以前に黒部第三発電所のトンネル工事という素材を使って『高熱隧道』という小説を書いたことがあります。この工事に従事した労務者の半ば以上は朝鮮の人ですが、強靭な体力を駆使して遂にトンネル貫通を果した。いまの考え方からすると、朝鮮の人を労働者に使ったというと虐使したのではないかと考えがちですが、事実は比較にならないほど高い給与が魅力となった。ともかく朝鮮の人と書くと主題が妙にねじれてしまうおそれがあるので、ただ労務者という形で押し通しました。また自分の主題を明確にするためフィクションとして書きました。このことは後書きでことわっておきましたが、事実を素材としても、さまざまな書き方があると思います。
 新田さんの場合、たとえば『富士山頂』などを例にとっても、自分の考えている主題に相反した事実の処理をどうなさいますか。おそらく新田さんもそうだと思いますが、私は主題の足をひっぱるような要素は容赦なく切り捨てて、主題を生かす事実だけを使っています。新田さんの場合はいかがですか。

新田 やはり同じようなものですね。

吉村 『富士山頂』は新田さん御自身が調査も何も必要としない当事者であられたわけで、主人公は新田さんの分身なのでしょうね。

新田 そうです。資料はそっくりありますからね。ただ、役人をやめないと書けないから、やめてから書いた。その点お役人はつらいですね。あの少し前に新潮社で出した『火の島』って爆発の危険にさらされた人たちが鳥島から引き揚げる。あれもやめてから書いたのです。在職中には問題がありますから。

吉村 自分自身を小説化する操作はどうなさるのですか。

新田 『富士山頂』の場合は、葛木という人間を設定すると、自分から離れた人間が頭の中に思い浮びますね。で、それを勝手に……。だから小説の中の人間は、私自身よりもずっとできのいい人間ですよ(笑)。出てくる人物は全部実在のモデルですけど、あるいは三人を一人にまとめたモデルがありますしね。それも名前を書いてしまうと、一応実際の人と縁を切って、勝手な想像をして動かすというふうにしています。そうしないと、とても書けない。

吉村 『高熱隧道』の最後に工事責任者のグループが人夫たちに不気味な恐怖を感じて、トンネルを山のほうに下りていってしまうことを書きましたら、土木工事に関係している私のいとこが、土木屋はそんな気の弱いものじゃないというのです。しかし、私の小説では、どうしてもその人間たちはふみとどまっているわけにはいかない、逃げざるを得ない。事実とは異なっていても、私の小説に関するかぎりそれが真実なのです。

新田 でもそれを小説の中で、不自然に読ませなければそれでいいんじゃないですか。御親戚の方が読んで不自然に感じたのか、ただそういう事実はないといったのか。

吉村 土木屋はそういうものじゃない、根本的な精神に反するというのです。それはそれでわかるんですが、事実というものを小説家が扱った場合、それはもう事実ではなくなるのではないかという気がするのです。

新田 しかし、土木技師だから、そういうことはあり得ないと思い込んでしまうのは、それが小説である場合は、たいへんおかしなことになりますね。人間ってそんなに杓子定規のものじゃない。工事責任者だって、自分の生命の危険を感じるような場合になってくれば、逃げるのは当然です。だから、それをあなたの筆で矛盾を感じさせないように書いたらいいのであって、そういうところに作家としての使命感みたいなものが感じられるんじゃないですか。

歴史を残す

吉村 戦争というものが、たとえば「陸奥」の爆沈事故にしても、歴史の襞(ひだ)の中に急速に埋もれていっている。いまならばかなりはっきりとした形で把握できる。日本での最大の歴史となるはずのあの戦争を書くことは、歴史小説を書くのと全く同じだと私は思っています。新田さんの『富士山頂』も歴史小説として書いているという意識はありませんか。

新田 もちろんそういう気がありました。歴史として残す一つの方法として書いたのがずいぶんあります。『ある町の高い煙突』という公害問題を扱った作品は、明治の末期において、資本家と被害者側との協調によって、世界一高い煙突を立てることによって公害を克服した事実なんですが、その歴史を書き残さなきゃいかんと思って、調べて書いたわけですけど、そういう事実に触れると、私は万難を排して取材して書きたいという非常な勇気を感じます。

吉村 明治以前を舞台とした歴史小説を書いたことはほとんどありませんが、新田さんの場合『武田信玄』などお書きになっていますが、『富士山頂』を書く姿勢と同じじゃないかという気がするんですが。

新田 姿勢はまったく同じですね。やはり時代の背景における人間というものを書くわけです。歴史小説にしても、記録的な小説にしても、そのような姿勢のあり方がいちばん大切じゃないかと思いますね。『富士山頂』にしても、いまの時点においては、富士山は日本人の象徴的存在であるということ、それを書き残したかったんですよ。
 われわれは間違えたものを残しちゃいけない。ことに大東亜戦争のような悲惨な戦争が行われたあとには、なるべく史実に正しいものを残すことが必要ですね。だからこんどのあなたの『陸奥』のお仕事はそういう意味で非常にいいと思いますよ。だれも噂だけで書けなかったものを、あなたが書くことによって、そこに事実を彷彿とさせるものが出てきたわけですからね。歴史のブランクになったところをどう埋めていくかというところに、歴史小説を書く作家の生きがいを感じます。これからも、お互い、しっかりやりましょう。

新潮社 波
2020年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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