組曲 わすれこうじ 黒田夏子著

レビュー

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組曲 わすれこうじ

『組曲 わすれこうじ』

著者
黒田 夏子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103533115
発売日
2020/05/27
価格
2,090円(税込)

書籍情報:openBD

組曲 わすれこうじ 黒田夏子著

[レビュアー] 村田沙耶香(作家)

 久しぶりに、誰かが書いた文章を音読した。我慢ができなかったのだ。『組曲 わすれこうじ』だ。ページを捲(めく)っているうちにうずうずとして、我慢ができず、一行声を出して読んだ。読書の途中に、「えー」とか「わあ」とか呟(つぶや)くことがあっても、本の中の文章をいきなり読み上げたのは、生まれて初めてだったかもしれない。

 この本は、作者の黒田夏子さんが作り上げた彼女だけの横文字の文体で綴(つづ)られている。17の掌編は、知っているはずのものや、(たとえばお辞儀や、うた、時間)が新しい言葉によって、一度自分の中で壊れて再生したり、まったく知らない光景になぜか記憶をくすぐられたり。この作品は、「読書」という言葉のおそらく一般的なイメージとは全く違う場所へ、読み手を連れていってくれる。

 引用したいところは山ほどあるが、美しく横に綴られることで完成した文章を、この書評欄に持ってくることは不可能だ。しかし無理矢理、強引に(そんなことをこの大切な作品に対してしたくはないが)言葉の断片を拾えば、「手がみ」について書いてある一部分に、「ほとんどだれにも書いたことがない」「文体がない恥ずかしさにたえられないからだ」とある。子供の頃、私は「文体」というものに激しく憧れていた。学生時代は、好きな本の一部分を大きさを変えて何枚もコピーをし、味わい尽くそうとしたこともある。そういう自分の「奇妙な読書」を笑われたこともあったが、「文体」とはここまで愛していいものなのだと、打たれた。この本のページを捲っていると、言葉を、小説を、味わうというとき、読み手はどんなふうにそれを楽しんでもよくて、その密(ひそ)やかな体験こそが、読書なのだと純粋に思うことができる。

 「人はぜんぶの時間を持ちあるくしかなく」とあるが、読者は、この本と過ごした特別な時間を、一生持ち歩くことになる。それは、この上もない幸福である。

 ◇くろだ・なつこ=1937年、東京生まれ。2013年、「abさんご」で史上最高齢の75歳で芥川賞を受賞。

読売新聞
2020年8月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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