時間を管理しようとする時代に“主観的な時間”を思考する
[レビュアー] 角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家)
世知辛い世の中だが、今の時代、何が一番世知辛いかといえば、それは時間の流れ方なのかもしれない。
機会費用という言葉に象徴されるように、近頃では時間の使われ方までコスト管理の思想がいきわたった。怠惰にすごすことは生産性に結びつかないのでコスト高だ。一日の仕事が終わってもジムに通ったり、SNSに記事を書いたり、分刻みで活動に追われている。それにテクノロジーの発達で断片的な情報にばかり目が行き、脳ミソもすっかりザッピングに適応してしまった。要求し、即答がかえる超速の即応社会。現代をとりまく時間は、そんな瞬間的でぶつ切りの場面の連続である。
でもそんな時間の流れ方はとても虚しい。なぜなら時間とは本来、人間個人の次元に属する現象であるからだ、と著者は説く。
本書で思考される時間は物理学的な時間ではなく主観的な時間だ。時間の捉え方はそれぞれ感受性や立場、環境、文化によって異なる。だが、ひとつ言えるのは、どのような時間であれ、私たちは生きているかぎり時間から逃れられないということである。現在、経験していることのなかに過去が不意に顔を出したり、今の経験から新しい未来が突如開闢したり、といった生成変化があるから人生は豊かになる。つまり時間とは個々人固有のひと連なりの物語、だから時間を考えることは生を考えるのにひとしい。
時間の行きつく先は究極的には死であり、死んだときにのみ時間は止まる。だから死を本能的に恐れる人間は時間を管理しようとする。分刻みで手帳に予定を書きこむ現代人は時間を管理できているとの万能感を抱くが、しかし管理された時間に真実の生を見つけることは可能なのか。仮に人が本当に不死となったとき、永久に引きのばされた生にかけがえのない一瞬は存在するのか?
小さいけれども濃密な問いかけの書である。