愛情の対象となる男をなくしてしまった女を描く、「王様のブランチ」でも紹介された井上荒野の最新刊

インタビュー

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そこにはいない男たちについて

『そこにはいない男たちについて』

著者
井上, 荒野, 1961-
出版社
角川春樹事務所
ISBN
9784758413534
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

井上荒野の世界

[文] 角川春樹事務所


井上荒野

『そこにはいない男たちについて』は、おいしい料理教室を舞台にした、男と心を通わすことができなくなった二人の”妻”、愛する夫を喪った女と、夫が大嫌いになった女の物語だ。種類は違えど、愛情の対象となる男をなくしてしまった女性を描ききった著者に、その創作の秘密をうかがう。

 ***

夫を嫌悪する女と、夫をなくした女の対峙

――新作『そこにはいない男たちについて』には視点人物が二人います。夫が嫌いだと言う能海まりと、一年前に仲の良かった夫を亡くした園田実日子です。

井上荒野(以下、井上) 愛していた人と一緒にいるけれど今は嫌いだということと、愛している人を失ったこととはどう違うのだろうと思ったことから、この二人の話になりました。

――まりは夫の仕事を手伝っていますが、マッチングアプリで出会った他の男性とデートしていたりする。「夫が嫌い」と公言するまりの心理が興味深かったです。

井上 彼女には、嫌いなのに別れないという矛盾がありますよね。その矛盾を解決するための行動が、どうしようもない方向に進んでいってしまっている。
 嫌いだ嫌いだと言うのは、相手に関心があるということ。本当に嫌いだったら、相手のことなんて考えたくもないはずだし、マッチングアプリもやらない気がする。そういう点では、まりはまだ可愛げがありますね(笑)。

――一方、料理研究家の実日子は、一年前に夫を亡くしていて、ようやく料理教室を再開させたところです。

井上 夫が病気で看病する期間があったなら少しは心構えもできたかもしれないけれど、実日子の場合はある日突然亡くしてしまったので、すごく心残りがある。今ようやく日常生活に戻ったところですが、本当には戻り切れていない。あの時ああしていればよかった、と思うことも多いだろうし。

――まりが実日子の料理教室に行ったことから二人は出会う。彼女たちの変化をばらばらに書くのではなく、やはり対峙させたかったわけですか。

井上 そうですね。時々お喋りをさせて、お互いに相手のことをどう思うかを考えてみたかったんです。まりは自分たちのことを「どっちがかわいそうなのかな」と言いますよね。どちらがどうというのは作者の私が決めることではなくて、読んだ人が考えてくれてよいと思っているんですけれど。

――二人とも三十八歳にしたのは。

井上 まだ歳だからと諦める年齢でもないし、もがく体力がある。生きることはもがくことだから、四十代でも五十代でももがいていいけれど、三十八歳は積極的にもがける年齢かな(笑)。それと、よく夫とも話すんですけれど、自分は内面が三十八歳くらいで止まっている気がするんです。だいたい三十五歳から三十八歳くらいの時のまま。夫は私よりも十歳年上ですが、彼も内面が三十五歳のままのような気がするって言っています(笑)。

――その年齢だから、二人とも夫婦の間に蓄積されているものもありますよね。

井上 最近『よその島』という小説を書いたこともあり、これも記憶が重要なモチーフになりました。記憶がなければ好きな人が死んでもすぐ平気になるだろうし、記憶がなければ嫌いな男と暮らしていてもそんなにつらくない気がする。それに、まりは嫌なことをよく思い出すけれど、よかったことも憶えているから面倒なんですよね。その記憶は相手が全部作ったものではなく、自分も加担して作ってきたので、なおさらやっかいだと思います。

変化していく二人の女性たちのイメージとは

――彼女たちの心情と状況の変化は、どのようなイメージがありましたか。

井上 実日子に関しては、癒えない傷はないというのが私の基本の考えなので、少しずつ回復していくだろうと思いました。でも、何かがあって急に変わるとか、新しい恋をしたら忘れられるとかいったことじゃない。私の想像ですけれど、日常のささやかなことがちょっとずつ積み重なって回復していくと思う。
 まりの場合は、夫が自分が思った通りの反応をしてくれないと、ますますつらくなりますよね。まりの夫は実際的というか、もう駄目だと思ったら未練もなくもう駄目だと思えるクールな人。そうはできない人がそういう人と一緒にいるのはつらいでしょうね。

――二人の夫の実家との関係も対照的。まりは光一の実家に馴染めず、一方、実日子は夫の死後も彼の両親と温かい交流がある。

井上 二人に差をつけすぎました(笑)。ただ、まりが夫のことが大好きだったら彼の実家の雑多な感じを楽しめたと思うし、実日子が夫を嫌いだったら、彼の実家は堅苦しくて面倒くさい、となっていたかもしれません。

――光一の実家に行く時にまりがお土産を用意しているのに光一は実家の近所のスーパーで和菓子を買う。あの相容れない感じが(笑)。

井上 あれは自分の生活から掘り起こしました(笑)。私はお土産を持っていくことをしない家で育ったから、そういうことが思いつかないんです。夫の実家に行く時に途中で「お土産忘れちゃった」と言ったら、夫が実家の側のイトーヨーカドーでお土産を買おうとしたんです。彼にとってはお土産の中身より渡すという儀礼が大事なんですよね。でも私は、「私が実家の近所で買った、なんて思われたら嫌だな」と思ってしまう(笑)。そういうささいなことって、関係がうまくいっていればそんなに嫌じゃないんですよね。うまくいっていない時は何もかもが気に障るという。

――他の人たちも印象深かったです。料理教室の生徒で、彼氏の愚痴を言いながらも「許せないから別れない」と言う真行寺さんとか。

井上 そういう人いますよね。彼の愚痴を言うから「別れれば?」と言ったら別れられない理由を延々並べる人(笑)。
 人を嫌いだとか好きだとかいう気持ちって複雑ですよね。うまくいっている時はシンプルに見えるけれど、関係がまずくなってきた時に、その複雑さが出てきちゃう。
 やっぱりみんな傷つきたくないし心安らかに生きていきたい。だからこそ、へんな行動になるってことはあるんでしょうね。

――自分にとって相手が「いる」「いない」は物理的な現象とはまた違うなと感じます。

井上 そうですね。まりは夫のことを「そこにいない」と思っているけれど、実際には「いる」のかもしれない。実日子の夫は死んでしまったけれど、記憶の中にはずっと「いる」。「いる」のか「いない」のかというのは、自分の心の問題ですよね。

――それにしても料理が美味しそうでした。井上さんはもともとお料理上手ですよね。

井上 日常の料理ではなく教室が出てくるので、料理研究家の稲葉ゆきえさんの教室に行ったり、彼女のホームページのお料理を参考にさせていただきました。やっぱり教室に行くと、レシピだったりコツだったり、知らなかったことを知りますね。

――いろんな人とこの本について話したくなります。まずはよく夫の愚痴を言っている友達に渡したいです(笑)。

井上 私も、偏食の夫に読ませたいです(笑)。

 ***

井上荒野(いのうえ・あれの)
東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。1989年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞、2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞、08年『切羽へ』で第139回直木賞、11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞、16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞、18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。他の著書に『もう切るわ』『ひどい感じ──父・井上光晴』『誰よりも美しい妻』『ベーコン』『夜を着る』『雉猫心中』『静子の日常』『つやのよる』『もう二度と食べたくないあまいもの』『キャベツ炒めに捧ぐ』『リストランテアモーレ』『あちらにいる鬼』『あたしたち、海へ』『よその島』など多数。

インタビュー/瀧井朝世 人物写真/三原久明

角川春樹事務所 ランティエ
2020年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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