赤い砂を蹴る 石原燃著
[レビュアー] 栩木伸明(アイルランド文学者・早稲田大教授)
旅の時間は空白なので、過去や他者の時間が入りこむ余地がある。本作は、母の恭子を亡くした「私」(千夏)と、母の親友で夫雅尚を亡くしたばかりの芽衣子(めいこ)がブラジルを旅しながら、家族の思い出を語りあう物語である。
芽衣子はブラジルの農場で生まれ育ち、雅尚と結婚して日本へ渡った。恭子は画家で、ブラジルの大地に立つ芽衣子の姿を絵に描きたかったが果たせなかった。今回の旅は、日本への帰化申請を準備するため、農場へ短期間里帰りする芽衣子に、「私」が同行してきたのだ。
ふたりの家族関係には奇妙な符合がある。雅尚と千夏の弟はどちらも入浴中に突然死した。雅尚は母への愛に長年呪縛され、芽衣子はその姑(しゅうとめ)にうとんじられ、千夏は若い頃わだかまりができた恭子と和解するのに年月を費やした。そして全員、父親とは縁が薄い。
そのせいだろうか、旅の途上で「私」が反芻(はんすう)する思い出の中では自己と他者の記憶がすり替わり、人物が重なり、時空が急変する。思い出したくない光景や死別の場面が滲(にじ)みあい、男性中心的な日本社会で抑圧を受けた個人の体験は、集合的な経験の一変奏へと変化する。
やがて、「私」の意識の中に恭子の声が割り込んでくる。母娘の声がからみ合う密室劇の中で、母は、子どもを他人に預けて働いていた頃に受けた無言の抑圧や、自由に生きようとしたゆえの苦しみを打ち明ける。亡母のその声は娘自身の胸の奥底から聞こえてくる。
読者はその声を漏れ聞きながら、これは鎮魂の小説なのだと気づく。作者の母親の小説家津島佑子と、急死した津島の息子をめぐる記憶が、「私」の思い出に滲みこんでいたのだ。
千夏と芽衣子の旅に付き添うぼくたちは、ブラジルの大地で「赤い砂」を蹴る千夏を二度、目撃する。過去と他者に向き合うことを学びながら、現在をつかもうとして駆け出すひとの輪郭が目に焼きついた。
◇いしはら・ねん=1972年、東京都生まれ。武蔵野美術大卒。劇作家。本作が小説デビュー作。