レシピを読みだすと止まらない イタリア料理の聖典

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レシピを読みだすと止まらない イタリア料理の聖典

[レビュアー] 大竹昭子(作家)

 原題は『厨房の学とよい食の術(すべ)』だが、イタリアでは著者名の「アルトゥージ」で通っているという。作家の須賀敦子はエッセイで、結婚してすぐに夫からこの本を贈られたが、長らく本当の題に気がつかなかったと書いている。

 傑出した人物だったようだ。だれにも頼まれることなくこつこつと原稿を書き、版元にもちこむも断られ、自費出版したのが一八九一年、七十歳のとき。少しずつ注目されて版を重ね、その度に筆を入れてレシピを増やし、九十歳で他界する直後に出た十五版では、レシピは当初の四百七十五を大幅に上回り、七百九十に達していた。

「いかに料理書を著したからといって、わたしのことを食い道楽であるとか大食漢であるなどと思わないでいただきたい」と書く。そう、彼の食への情熱はグルメとは一線を画している。一八六一年に統一がなるまでイタリアに共通語は存在せず、レシピが言葉で伝えられて広まることはなく、フランス料理が幅を利かせていた。自然の恵みを活かした個性豊かな郷土料理がたくさんあるのに、それらが知られず注目も浴びない無念さ。風土と文化への愛が彼を動かす。イタリア料理はアルトゥージにはじまったと言われる所以である。

 増刷するごとに増えたレシピの多くはイタリア全土の読者から送られてきたもので、彼は使用人の手を借りてそれらをすべて試し、本に収めていった。本が人々の関心を掘り起こす「場」になり、食を巡る運動へと発展していったのである。

 レシピは、前菜、スープ、煮込み、揚物、焼物、デザート、リキュールなどと幅広くカバーしており、読みだすと止まらない。それはひとえに文章がおもしろいからである。勘所をおさえたシンプルでユーモラスな表現に引込まれ、日本の材料を使ってハイブリッドなものを作りたいという誘惑にかられる。それほど、インスピレーションの宝庫なのだ。

新潮社 週刊新潮
2020年9月24日秋風月増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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