不安と葛藤がつきまとう日々から40年……『日日是好日』の著者が語った人生観

エッセイ

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日日是好日

『日日是好日』

著者
森下 典子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784101363516
発売日
2008/10/28
価格
781円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

奇跡の四十年

[レビュアー] 森下典子(エッセイスト)


著者の森下典子さん(photo: Sakurako Kuroda)

森下典子・評「奇跡の四十年」

1956年神奈川県生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒後、就活に失敗し、記事を書くアルバイトを経てフリーライターとなった森下典子さん。樹木希林さんの遺作となった映画「日日是好日」の原作者である森下さんは、64歳となった今も精力的に活動するが、若かりし頃はいつも不安と葛藤がつきまとう人生だった、と回想する。本記事では森下さんが自身の人生を振り返りながら、感謝の気持ちを綴ったエッセイを紹介する。

 * * *

 五年前の冬だった。銀座で打ち合わせした帰り、数寄屋橋交差点で青信号を待ちながら通りの向こうにそびえる有楽町マリオンを見た。ふと、あの日を思い出した……。

 一九七八年。私は就職活動中だった。未曾有の不景気でどこへ行っても履歴書を突き返され、打ちのめされて数寄屋橋交差点にやってきた。有楽町方面を見ると、軍艦みたいな大きなビルが建っている。なんだか「お前はいらない」と拒絶されている気がした。

 内定なし、就職浪人決定……。そんな私にアルバイトの話が舞い込んだのは、その年の暮れだった。週刊誌のコラムに巷のこぼれ話を書く仕事だという。その週刊誌の編集部は、なんと、数寄屋橋交差点の向こうに見えた軍艦みたいな新聞社の本社ビルにあった。

 それが書く仕事のきっかけだった。数十行の無署名のコラムを十年書き、私はフリーライターになった。

「身分の保証もないなんて。華やかなのはほんの一握りの人だけだよ」と、親は反対した。それもわかっていた。けれど、その危うい道に賭けてみたい自分がいた。体験記、インタビュー記事、ルポ。本も何冊か書き、三十代はあっという間に過ぎた。たまにまとまったお金が入っても、長くは続かない。仕事がないこともある。いつも不安と葛藤がつきまとう人生になった。

 毎週土曜日の午後、私はお茶の稽古に行った。二十歳の時、母に勧められて、軽い気持ちで習い始めたお稽古事だった。……茶室に座ると、静けさの中でしか聞こえない音が聞こえてくる。木々の葉を打つ雨の音。お湯と水の音の違い。そして、釜の底で静かに鳴り続ける「松風」。釜に水を一杓足すと、松風は止み、しばし沈黙が続く。やがて断続的に「し、し、し、し」と鳴り始め、「し―――」と一つにつながる。私はその音に、心を預けた。すると、静けさが心の奥にしみ渡って、呼吸が深くなる……。お茶の帰り道は、空が高く、遠くまで見渡せた。

 軽い気持ちで始めたお茶が、いつの間にか人生に寄り添い、仕事と対をなす両輪となって、私を支えてくれていた。

 茶室の中で、心の中に起こることを、私は誰かに話してみたかった。だけど、それを言葉にすることは、夜見た夢をつかまえるのに似ていた。確かに感じたのに、言葉にすると違うものになってしまう。私は薄い膜に隔てられているようなもどかしさを感じた。

 それを本に書こうと思ったのは四十代の初めだった。私と同じように日々悩みながら生きている人に、一緒に茶室に座り、私が聴いた雨の音や、松風の音を聴いて欲しい。そして、心に起こることを共に感じて欲しい。このもどかしさを突き破り、誰かに胸の思いを伝えたかった。

『日日是好日 お茶が教えてくれた15のしあわせ』が出版されたのは二〇〇二年、四十六歳の時だった。

 反響がひたひたと返ってきた。読者からのはがきが、小さな文字でびっしり埋まっていた。「駅のベンチから立てなくなり、一気に最後まで読みました」「涙が真っすぐ、ストン、ストンと落ちました」

 伝わった……。背中に何かがサワッと走った。初めて本がベストセラーになった。そして、二〇〇八年、『日日是好日』は文庫化され、毎年、版が重なった。

 それでもまだ経済的安定は遠い。友だちが皆、定年後の人生を考える年代になっても、私は陸の影も見えない海原を泳ぎ続けなければならなかった。そんなある日、数寄屋橋交差点で、就職活動の頃を思い出したのだ。

「あれから、四十年……」

 その時、何かが反転した。

 考えてみれば、私はまがりなりにも筆一本でここまで食べてきたのだ。

(よく生きてこられたなぁ~!)

 突然、空の上から、自分の人生が見えた。門前払いばかりの就職活動、週刊誌のアルバイト、お茶の稽古。すべてがつながってここにいた。実はすべてが必要だったのだよと、「答え」を見せられた気がした。

 人は歳月を重ねることでしか、自分の人生を見ることができない。生きてみなければわからないのだ。一つ一つの出来事は不運や不幸に見えたとしても、年月を重ね、振り返ってみると、起こったことは必要だったことに変わる。不安と葛藤の自分の四十年を、私はその時「奇跡だ!」と心から思った。

 翌年、六十歳になった私に、本当に奇跡が起こった。映画化の話が舞い込んだのだ。映画プロデューサーの吉村さんは、松田龍平に似た四十代のイケメンだった。彼は、地元の図書館でたまたま『日日是好日』の背表紙を目にし、何気なくページをめくったという。

「号泣しました。映画化させてください」

 繰り返し読んだ彼の『日日是好日』は、ほぼ原形をとどめないほど、ぼろぼろになったという。その言葉に胸が熱くなった。

 製作費は一億円。俳優への出演依頼、さまざまな交渉。吉村さんは数々の難関を乗り越え、一年後、映画化が正式決定した。監督は大森立嗣。主なキャストも決まっていた。

「えっ! 黒木華と樹木希林!?」

 その知らせを聞いた時、私はあまりの僥倖に耳を疑った。

 映画作りが動き始めた。横浜市内の一軒家に、稽古場のロケセットが作られた。私は「茶道指導」として、先生役の樹木希林さんのお点前を指導することになり、撮影期間中はスタッフとして現場に立ち会うことになった。

 撮影、照明、録音、大道具、小道具……連日、数十人のスタッフが集まり、大森監督の「スタート!」「カーット!」という号令が現場に響いた。

 撮影が終わると、私は新たな本を書き始めた。『日日是好日』は、お茶を始めた二十歳から二十六年間の成長記だったけれど、それには続きがある。私は六十を過ぎた今も稽古に通い続け、四十代だった先生は八十代の今も稽古を見てくださっている。そこに集う仲間も年を重ねた。

 私はもう『日日』の頃のように、目に見える成長をすることはないが、障子に映る庭木の影や、夏の夕立の匂い、ふとした人の言葉を味わいながら、季節と共に内へ内へと熟している……。五十代の頃、稽古の後につけていた日記を基に、稽古場のある一年の二十四節気を書いた。『好日日記 季節のように生きる』は、映画公開の直前、書店に並んだ。

 樹木希林さんの訃報が飛び込んできたのは、映画公開の一カ月前だった。衝撃が日本中に広がった。『日日是好日』は、その年カンヌ映画祭で賞を獲った『万引き家族』と共に、樹木さんの最期を飾る作品になった。

「映画は作っただけじゃダメ。知ってもらわないと。物作りって、そういうものよ。興行収入の目標はいくら? 十億? あ、そう」

 最後に会った完成披露試写会の日、樹木さんはそう言って、体調のすぐれない中、率先して宣伝活動の先頭に立った。……まるで、見えない樹木さんが差配したかのように、映画『日日是好日』は、公開二カ月で観客動員数百万人を突破した。原作も増刷を重ね、六十万部になった。単行本の出版から十六年、文庫化から十年がたっていた。

「こんなこと、あるんですねぇ……」

 私は驚き、

「こんなこと、あるんですねぇ……」

 編集者も驚いた。

 全国から講演依頼がやってきた。京都、盛岡、札幌、岐阜、富山、新潟……トランクをゴロゴロ引っ張って旅する日々が始まった。茶道への思い、映画の撮影現場の裏話、樹木さんとの思い出……。私は、見えない読者に向かって書いてきたが、講演会では、目の前に、会場を埋め尽くす聴衆の顔が見えた。サイン会で、若いお弟子さんに両側から支えられた高齢のお茶の先生に、「私が長年言いたかったことを、あなたは代わりに書いてくれた。ありがとう!」と、力強く手を握られた。盛岡の講演で、東京から飛んできたという女性が、「この本が、私の生き方を変えてくれた」と、ボロボロになった『日日』を見せてくれた。嬉しくて胸がいっぱいになった。『日日』は、私だけの『日日』ではなくなっていたのだ。

 そして『日日』は海を渡ることになった。翻訳出版のオファーが次々にやってきた。フランス、フィンランド、韓国、イタリア、オーストラリア、イギリス。表紙もタイトルも、国によってさまざまな『日日』が出版される。

 楽しみにしていた、そんな春、コロナ禍で、世の中は突然活動を止め、講演も次々に延期になった。フランスでの映画上映も決まっていたが中止になった。

 ステイホーム期間中、私は以前から作りたかった本に取り組んだ。

 絵が描きたくて仕方がなかった。稽古場で、先生の美しいお道具や茶花、季節のお菓子などを見ていると、時々、愛おしさで、指先がうずうずした。好きだ。描きたい。この道具の、どこが好きなのか。その感情を自分の体を通して紙の上に載せたい。

 茶入の肩から飴のようにトローッとなだれた釉の色。棗の肩の丸みを照らす春の光。蓋の裏から現れる蒔絵の妖しい輝き。ここは色を薄くしよう。ここは銀を使おう。自分の思いを紙に載せようと苦心する時、苦しみは歓びだった。

『日日是好日』『好日日記』の時もそうだった。私は言葉にせよ絵にせよ、好きで愛おしいと感じることを紙の上に載せたいのだ。自分の五感と体を通したものは、永遠に自分のものになる。

 日本の繊細な季節のグラデーションを七十三枚の絵にして並べ『好日絵巻 季節のめぐり、茶室のいろどり』という本が出来上がった。

 いったん収まったかに見えたコロナが、また再燃し、この猛暑の夏もマスクをして暮らすことになった。

 そんな中、コロナで大打撃を受けたあのイタリアから、イタリア語版の『日日』が届いた。黒木さんと樹木さんのような二人が、縁側に並んで座る表紙のイラストがかわいい。なんと発売一カ月で増刷されたという。

 吉村プロデューサーからは、フランスでの映画『日日是好日』の上映が再決定したというニュースが来た。

 コロナが猛威を振るっても、本や映画は死なない――じわじわと元気がわいてくる。

 コロナは社会の構造や私たちの人生観を否応なしに変えるだろう。けれど、いつか長い歳月の先に、起こったことは必要だった、そう思える日が来ると信じよう。


『日日是好日』2008年に新潮文庫化、台湾、中国などでも翻訳・刊行された。

新潮社 波
2020年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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