【ハマるぞ!伊岡瞬】家出少女との同居生活。その果てに待つのは「殺人事件」だった。――『いつか、虹の向こうへ』

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【ハマるぞ!伊岡瞬】家出少女との同居生活。その果てに待つのは「殺人事件」だった。――『いつか、虹の向こうへ』

[レビュアー] 西上心太(文芸評論家)

『いつか、虹の向こうへ』(角川文庫・2008年)巻末に収録されている「解説」を特別公開!

 本書は二〇〇五年の第二十五回横溝正史ミステリ大賞・テレビ東京賞を受賞したハードボイルド小説だ。

 いうまでもないが、横溝正史ミステリ大賞(以下、横溝賞と記す)は江戸川乱歩賞に次いで二番目に歴史の古い長編ミステリの新人賞である。一方テレビ東京賞は最終選考作品の中から大賞とは別にテレビドラマ化を前提として、協賛会社である株式会社テレビ東京によって選考される賞である。第二十二回から制定され、二〇〇八年の第二十八回まで七回を数えるが、大賞とテレビ東京賞の両方を受賞した作品は本書だけである。本書は小説のプロが太鼓判を押しただけでなく、映像のプロが映像化に食指を動かした作品でもあるのだ。

 ちなみにドラマの方は二〇〇五年八月に石田純一主演で放映された。映像化に時間がかかる作品が珍しくない中で、受賞決定から半年あまりで制作放映されたことは異例である。それだけ製作者にやる気を起こさせる作品だったのだろう。

さてわたしと本書には他人事でないかかわりがある。というのもここ数年、横溝賞の予備選考に携わっているからだ。横溝賞に限らずこれまでさまざまな文学賞の予備選考を務めてきているが、その仕事をやっていてなによりも嬉しいのは、大賞レベルの作品と選考の第一段階で出会うことだ。

 普通の書籍より数倍重い原稿が印刷されたコピー用紙の束を持ち、応募作品と向かいあうのだが、レベルに達しない作品の山の中から、ときおりこれはと思う作品が現れる。思わず姿勢を正し原稿と対峙する。不思議なことにいつしか原稿の重さも気にならなくなり、作品にのめり込んでいく。その中でもごくごく稀に、その時点ではまだ他の作品を読んでいないのに「これで決まりだな」と思い、その通りになった例が何度かあった。『いつか、虹の向こうへ』はまさにその稀な一例となった作品なのである。

【ハマるぞ!伊岡瞬】家出少女との同居生活。その果てに待つのは「殺人事件」だ...
【ハマるぞ!伊岡瞬】家出少女との同居生活。その果てに待つのは「殺人事件」だ…

 尾木遼平はアルコール依存症気味の中年警備員である。いつものように酒場で飲み過ぎた帰り道に、金がないので泊めて欲しいと声を掛けられた若い女性をめぐって三人組と乱闘になる。翌朝、意識を取り戻した尾木は自分が自宅に戻っていることに気づく。声を掛けた女性、高瀬早希が気絶した尾木を連れ帰ってくれたのだ。尾木が住む一戸建ての家には奇妙な同居人たちがいた。経済ノンフィクションの翻訳者である石渡久典、休学中の大学生柳原潤、元主婦の村下恭子の三人である。尾木はかつて腕利きの刑事だった。だがわずかな心の隙を突かれ、男と別れたい女性に利用されたあげく、その男を死に至らしめてしまった過去があった。傷害致死で懲役四年の刑に服した尾木に残されたものは妻が去ったあとの老朽化した一軒家しかなかったのだ。早希は他の三人の間に溶け込み、尾木の家の四人目の同居人となった。

 だがそんな生活は長く続かなかった。数日後、早希の行方を捜す久保裕也が現れ、家に一人でいた尾木は散々に痛めつけられてしまう。早希は久保に強要され美人局をやっていたらしい。その日の夕方、久保が建設中の陸橋から転落死を遂げてしまい、動機と犯行機会があった早希は警察に逮捕される。早希の無実を信じる尾木の前に、地元暴力団の組長檜山が現れる。死んだ久保は檜山の甥だったのだ。檜山は尾木に初七日の法要までに真犯人を見つけることを厳命する。なぜか檜山ら暴力団は、早希が犯人でないことを知っているようだった。尾木は早希のアリバイを証明できる女性が存在することをつきとめたが、その行方は杳として知れなかった……。

 選考委員である綾辻行人の選評にあるように、たしかに「物語の構成要素を並べていくと(中略)どれもがある種のハードボイルドの定番的なガジェットだと云える」ことは間違いない。警察を追われ落ちぶれた元刑事、何度も降りかかる理不尽な暴力、ヤクザから強要された犯人捜し、心に傷を抱えた登場人物たち、といった具合に。だが作者は定番的なガジェットを使用しながらも、血が通った物語を構築することに成功していることは間違いない。

 そのうちもっとも重要な要因が、尾木が男女三人と奇妙な同居生活をしているという設定だろう。尾木がガードマンの仕事現場で知り合ったのが、国立大学をドロップアウトした柳原潤、通称ジュンペイである。彼を皮切りに酒場で知り合った石渡久典、そして刑事時代の尾木と深いかかわりがあった村下恭子が加わっていく。妻だけでなく名誉も誇りも失ってしまった尾木が、それぞれ深い悩みを抱えた男女を周囲に集め、一定以上は干渉しあわない疑似家族的な関係を築きあげるのである。主人公がこういう状況にいるハードボイルドは実に珍しい。

 だがそれは単に物珍しさだけの設定ではない。尾木の捜査という現在進行中の事件の叙述と、尾木と三人の同居人たちが抱える過去を明かしていく叙述を、ごく自然な形で溶け込ませ、重層的に物語世界を構築していくのだ。しかも彼らが抱えている悩みや傷が、単なる作品の彩りとしてではなく、メインプロットと密接に絡まってくるのである。尾木が柳原潤のことをジュンペイと呼ぶ真の理由や、村下恭子がたどってきた哀切極まりない人生に、心をゆさぶられない者はいないだろう。

 第二が、生きたキャラクターを実感させるリアル感に満ちた描写である。たとえばアルコールに依存する尾木が自宅で飲酒するシーンだ。

結局寝つくための酒を少しばかり飲むことにした。冷蔵庫に冷やしておいた、秘蔵のカップ酒を取り出す。二リットルパック入りの方が安くつくが、それだと二日ももたない。カップ酒なら一度に一本限りと区切りがつけられる。(文庫108ページ)

酒好きがごくりごくりと音をたてて飲む、というのは嘘だ。ビールならいざしらず、日本酒の冷やでは喉など鳴らない。すーっと入っておしまいである。(文庫109ページ)

 次に挙げるのはかつての同僚との会話だ。

「明日の夕方なら時間を作ってみる。二十時」
夜の八時は世間一般には夕方とは言わない。私にはその感覚がわかって、懐かしかった。(文庫185ページ)

 前者はアルコールに溺れつつありながらも、まだどん底に落ちる一歩手前の酒飲みの心情がよく理解できるモノローグである。後者は刑事の時間感覚がこの通りなのかはさておき、尾木の記憶に残っている刑事時代の肉体感覚を、簡潔に描いた一節といえるだろう。すべてがリアルであるかが問題なのではなく、刑事だったらそうなのかもしれないと、読者を納得させられる描写といえるだろう。このように作品に深みや厚みをもたらす描写がさりげなくちりばめられているのだ。

 第三がこれらをひとつにまとめ上げる文章力である。ハードボイルドだからといって饒舌にもなりすぎず、かといって堅苦しくもなく、ほどよく抑制された文体で破綻なく語られていく手際は新人離れしている。いったん読みはじめたら、すぐに作者が描く世界に引きこまれることは必至だろう。

 どうか出色のデビュー作をお楽しみいただきたい。

▼伊岡瞬『いつか、虹の向こうへ』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/200802000553/

*横溝正史ミステリ大賞に関する記述は2008年当時のものです。
*掲載にあたり、一部修正を加えました。

KADOKAWA カドブン
2020年10月18日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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