『1964年の東京パラリンピック──すべての原点となった大会』
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偉業の裏にある、名もなき人たちが生きた痕跡
[レビュアー] 磯野真穂(独立人類学者)
ノンフィクションとはいったい何が「ノン」なんだろう、と思うことがある。書いてあることの一字一句に虚偽がないとしよう。しかしその「ノンフィクション」が対象とする歴史の中で取り上げられない出来事は山のようにある。中心人物が何月何日に道端で転んだとか、その翌日の18時36分にお風呂に入ったとか、その日観たテレビ番組の内容とか……。一人の人生の中で、あるいは一つの出来事において、なぜ特定の風景だけが選ばれ、他は外れるのか。描かれなかった風景は重要ではなかったのか。
言うまでもないが、その選択権を持つのは著者である。そこに描かれたあれこれは、著者のお眼鏡にかなったからこそ、そこにあることを踏まえるとき、ノンフィクションに図らずも一番描かれてしまうのは著者自身ではないか、と私は考えるのだ。
さて、本書は1964年に東京で開かれたパラリンピックについてのノンフィクションである。描かれていることは私にとってはじめてふれることばかりであったので、その意味で興味深かったことは言うまでもない。しかし率直に告白すると、読了後一番はじめに脳裏に浮かんだのは、内容への感想ではなく「これを書いたのはどんな人だろう」という問いであった。
その理由は本書のアプローチの仕方にある。比喩を用いて説明すると、徳川幕府の誕生を描いた本なのに、なぜか家康中心に事は運ばず、「家康以外にもそのとき人は生きていた!」という、どこにも書かれていない著者の主張が本を閉じたときに響いてくる。そんな描かれ方がなされているのだ。
もちろん本書の主役は、大会開催に奔走した医師の中村裕(ゆたか)であり、彼についての記述が最も多い。中村は、身障者は療養所でおしめを当てて介助を受けながら暮らして当然といった当時の風潮に風穴を開けた。大会後には、自活可能な身障者がいるにもかかわらず雇用する先がないことを問題視し、身障者のための工場(身障者を雇用する企業)である「太陽の家」を翌年に開所。障害者雇用の道を開いた。
また中村の励ましのもと、43歳でフェンシングと水泳に出場した傷痍(しょうい)軍人の青野繁夫が残した言葉も胸を打つ。
〈私達と雖(いえど)も生活を楽しむ権利があるはずである。私は日本の政治者に対して、より一層の理解と、温かさを、私達の立場から強く要求したく思うし、又当然私たちが先頭に起って、要求しなければ解ってもらえないし、又改善されないではないかと、つくづく考えた次第である〉(『パラリンピック東京大会報告書』国際身体障害者スポーツ大会運営委員会、一九六五年)
1964年の東京パラリンピックは、当事者の意識を変革したという意味でもターニングポイントであった。本書の中で青野はその象徴としての役目を担う。
その意味で、本書を語るとき中村と青野は欠かせない。しかしそれでもなお、本書の魅力はかれら以外の記述にあると私はあえて主張したい。
例えば東京パラリンピックは、オリンピック時には選手の練習場として設けられた織田フィールドで開催され、競技は和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気の中進められたという。とはいえ、和気藹々とは一体どんなものなのか? それを読者に想像させるため、著者は当時のディテールを丁寧に記述する。
卓球会場では出場者が予想以上に増えて卓球台を増やしたため、観客が入れなくなってしまう。仮設スタンドで観客と選手の距離が近いため「お母ちゃん、がんばれ」という声援が選手に届く。金メダルが間違った人に贈呈される。イギリスからやってきた運営委員は「お茶の時間」といって競技や仕事を中断する。日本選手団はよせ集めで、若くて体力がありそうだからという理由でたいした経験もないのに何種目も掛け持ちした選手がいた。このような丁寧な記述が当時の空気をビビットに甦らせる。
著者のこのような目配りは、大会を陰で支えた通訳たちにも向けられる。報酬どころか交通費さえ出ないという、今であればブラック企業と揶揄されそうな条件の下、英語のみならず、フランス語、ドイツ語といった複数言語にわたる通訳を集めたのは、日本赤十字社の橋本祐子(さちこ)であった。その役を担ったのは「日本初の舞台で世界中からやってくる人たちの役に立つ」という理念に共感し集まった学生たちである。箱根療養所を事前に訪ねて障害に対する知識を深めるなどといった研修まで重ね、かれらは当日を迎えていた。大会中は通訳のみならず、街に出たいという海外選手のために車いすで回れるよう手配をし、案内役まで買って出たというのだから驚きである。
歴史的転換は一人の偉人の手で成し遂げられるわけではない。偉人の周りには、名を記憶されることもない無数の人たちがおり、かれらがいたからこそ偉業はそれとして成立する。ところがその名もなき人たちの生の痕跡を捉え、それを現代に甦らせるには、かれらが多くの人に記憶されてないゆえに、執念とまで呼べるほどの努力と工夫を必要とするだろう。登場人物たちの後ろから、歴史の実質を描き出そうという著者の温かな人柄と試行錯誤が溢れ出る、渾身のノンフィクションである。