軽度認知障碍の元刑事に重度認知症老人の身元調査の依頼が…

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わたしが消える

『わたしが消える』

著者
佐野, 広実, 1961-
出版社
講談社
ISBN
9784065211205
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

軽度認知障碍の元刑事に重度認知症老人の身元調査の依頼が…

[レビュアー] 香山二三郎(コラムニスト)

 今年も江戸川乱歩賞は二年続けてプロ作家の手に渡った。しかも作者は還暦間近のベテラン。選評にも、驚きには欠けるが候補作中もっとも安定していたとする声があったが、文章といい構成といい人物造形といい、さすがの巧さというほかない。

 主人公の藤巻智彦は東京・府中でマンションの管理人を務めているバツイチの六一歳。自転車で追突事故にあい病院で検査したら、軽度認知障碍であることが判明。数年後にはアルツハイマーに移行する可能性もあるとの宣告を受ける。二〇年前に別れた妻は数年前に病死していたが、一人娘の祐美は女子大で介護を学ぶ傍ら南多摩の施設で研修を受けていた。藤巻が認知症のことを明かせずにいると、逆に祐美のほうから相談を受ける。施設の門前に置き去りにされていたことから「門前さん」と呼ばれる老人がいるが、本人は重度の認知症で身元を示す物品もなし。そこで元刑事の藤巻に身元を調べてほしいというのだ。

 冒頭の宣告シーンから門前さん探しが始まるこの序盤からしてすでに素人離れした滑らかさだ。藤巻はかつての同僚を通じて指紋の照合を頼むが該当者なし。手がかりなしかと思われたところでしかし、意外な出会いから門前さんの人物像が徐々に明かされていく。

 この展開、正統的といえば誠に正統的なのだが、作者はタネの明かし方を心得ているのでページを繰る手が止まらなくなる。そもそも選考委員の綾辻行人が指摘しているように、本書は藤巻の一人称語りなのに「わたし」という言葉が使われておらず、語り口から人物の出し入れ、伏線の張り方に至るまで確信犯的なのだ。

 中盤から後半にかけて、門前さん探しは東北にまで足を延ばしていくが、そこには彼の驚くべき素性が待ち受けている。確かに斬新な趣向には欠けるかもしれないが、ここまで巧ければ新人賞ものとしては十分及第点。今後の活躍に期待したい。

新潮社 週刊新潮
2020年10月29日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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