『わたしが消える』
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消えゆく記憶と謎の男の正体 『わたしが消える』佐野広実
[レビュアー] 西上心太(文芸評論家)
交通事故がきっかけで、藤巻智彦(ふじまきともひこ)は自分に軽度認知障碍の症状が出ていることを知る。そんなおり、福祉施設で実習中の娘から、認知症の入所者の身元調査を依頼される。その老人は施設の入り口に置き去りにされていたため、「門前(もんぜん)さん」と呼ばれていた。幸運も手伝い、藤巻は「門前さん」を遺棄した人物を発見し、町田幸二(まちだこうじ)という名前も判明した。だがそれは謎の始まりに過ぎなかった。彼の持ち物にあった町田名義の古い免許証の写真は別人で、写真が剥がされた複数のパスポートや学生証などは全部別々の名義になっていたのだ。
藤巻はかつて県警捜査二課の刑事だったが、政治がらみの捜査が原因で警察を追われ、妻と離婚していた。それからの二十年、藤巻はマンションの管理人として働きながら、世間に背を向けて生きてきた。最近まで没交渉だった娘の依頼を引き受けたのも、「門前さん」に未来の自分を見たからだ。それだけでなく、藤巻は「門前さん」の身元を追っていくうちに、彼が何者でもなく過ごしてきた長い人生を知ることになる。
タイトルの通り、「わたしが消える」恐怖を抱えながら、自分の人生、そして謎の男の人生の空白を埋めようとする物語である。元刑事とはいえ、認知症の老人の過去を探るという畑違いの捜査という小さな話が、殺人や拉致などの暴力がからんだ大きな話になっていくのだが、この流れが実に自然だ。軽度認知障碍という主人公の設定も単なる趣向を超え、その苦しみや葛藤(かっとう)がストーリーと溶けあっている。年齢を重ねた読者にとっては、実に身につまされる内容なのだ。選評から読み取れるような欠点も、大きく改善されており、歴代の江戸川乱歩(えどがわらんぽ)賞受賞作の中でも、強く印象に残る作品となった。