灯台からの響き 宮本輝著 集英社

レビュー

4
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灯台からの響き

『灯台からの響き』

著者
宮本 輝 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087717013
発売日
2020/09/04
価格
2,090円(税込)

書籍情報:openBD

灯台からの響き 宮本輝著 集英社

[レビュアー] 木内昇(作家)

 近しい人が亡くなったとき、遺(のこ)された者の多くは途方もない喪失感とともに、後悔にさいなまれるのではないか。深く知り得たはずのその人について、取りこぼしているものが種々あることに気付き、愕然(がくぜん)とするのである。ずっと側(そば)にいたのに、いや、側にいたからこそ、いつでも確かめられるとすっかり油断していたのだ。

 牧野康平は、二年前に急な病で妻の蘭子を失った。彼は板橋仲宿の商店街で、父から継いだ中華そば屋を妻とふたりで切り盛りしていたが、以来店を閉めて家にこもっている。ある日、読みかけの『神の歴史』から蘭子宛の古い葉書が見つかる。差出人は妻が生前、「まったく覚えがない」と言っていた大学生で、「灯台巡りをした」という報告と、どこかの岬らしき図が描かれていた。本当に妻は彼を知らなかったのか。ふと湧いた疑念が、康平を灯台巡りの旅へと誘う。

 妻の過去を辿(たど)る康平を見守るのは、同じ商店街の惣菜(そうざい)店店主や友人の忘れ形見の青年、そして成人し、それぞれの道を歩みはじめた三人の子供たち。市井の人々の逞(たくま)しくも温かいまなざしがそこここに息づく。周囲の協力を得て旅を続けるうち、康平の奥底にまた店を開けようという意欲が芽生えてくるのは、彼の内側で、蘭子が再び生きはじめたからだろうか。

 終盤、ある人物との邂逅(かいこう)により、葉書の意味と、妻が守り続けた秘密が解き明かされる。それが単なる驚かし的新事実ではなく、それこそが蘭子という人物の本質なのだと深く腑(ふ)に落ちるところに、この小説の凄(すご)みがある。人は誰しも多面だ。ただその多彩な側面は、ジキルとハイド的乖離(かいり)ではなく、ひとりの元から思い思いの方向に伸びた糸によって、ゆるやかに繋(つな)がっている気がする。康平は、妻の芯となる一本をたぐり寄せた。世を去ったのちにも大切に丁寧に自分を生かしてくれる存在がある――中華そば屋で日夜忙しく働き続けた蘭子の人生は、そういう大きな幸せの中にあったのだ。

読売新聞
2020年10月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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