『またいつか歩きたい町』
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町並みはみんなのもの
[レビュアー] 山崎範子(編集者)
山崎範子・評「町並みはみんなのもの」
秋田・増田町、富山・城端、島根・大森町、愛媛・内子町、大分・臼杵市……古い町を愛してやまない作家・森まゆみが、何度でも訪ねたいとびっきりの町を案内した一冊『またいつか歩きたい町―私の町並み紀行―』を刊行。本作の刊行に合わせ、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の同僚だった編集者・山崎範子さんが、森さんとの思い出を明かした。
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あとがきのタイトル「町並みはみんなのもの」、いいフレーズだなぁ。これは全国町並み保存連盟のサイトを開くとまず飛び込んでくる言葉でもある。
町並みを形成するのは家と道と人、そして抱きしめたくなるような風景。家にはもちろん持ち主がいるけれど、道に面した外面を眺めながら「この猫にみえる置物は誰かへの内緒のメッセージに違いない」とか「この鍋は留守の時も引き売りの豆腐屋に豆腐を入れてもらうために出してあるんだ」とか。勝手に妄想を膨らませて歩く。
家の前のちょっとした鉢植え、玄関先に貼られたお札、脇に吊るしてある箒。それぞれの家が醸し出す匂いというかたたずまいがぐぐっとくると、「よし、ここに住もう(妄想の行き着く果て)」と思う。すなわち、町並みはみんなのものであり、自分のものなのだ。
では、どんな町並みがぐぐっとくるかと言えば、「あっていいものが変わらず残っていて、あってほしくないものが目に入らない」ところだろうか。もっといえば、指定された文化財ではなく、なんだかのんびりしたくなる居心地のいいところ、だろう。そういった町並みはいくらでもありそうだが、じつは見つけるのに苦労する。しかし、ときに、宝物のような町に出合う。残してくれた人たちに感謝である。
だから、この本は生まれた。
著者とは1984年の春に出会った。保育園に通う子供を迎えに行き、「お母さん、お迎えはぎりぎりでなく、もう少し早くに来てくれないと困りますよ」と注意を受けているとき、横にいたもう一人が森さんだった。
二人とも編集の仕事をしていて、いつも仕事の中途で迎えの時間になってしまうことを嘆き、子連れではなんにつけても半端ばかりで、もやもやしている時期だった。日が延びた帰り道に町を散歩し、どちらかの家で夕飯を食べるようになる。本の話をし、町の話をし、当然の帰結のように自分たちの手で雑誌をつくろうと盛り上がった。そこから地域雑誌創刊に踏み切るまで、あっという間のことだ。
知り合ったのが春、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』の創刊は同じ年の10月15日、仲間は4人に増えていた。雑誌づくりはまるで足元に井戸を掘り、汲めど尽きない地下水を探しあてるような楽しさだった。面白い話がこんこんと湧いてくる。
創刊からしばらくたった1986年、会津で開かれた第9回全国町並みゼミに、森さんは初めて参加した。地場に張り付き、起きてから寝るまでが仕事のような編集部に、彼女が仕入れて持ち帰る情報は刺激的だった。行ったことのない町並みの風景や、壊されんとする危機的な建物、会ったことのないまちづくりレジェンドの話を、聞き取った言葉で再生してくれる。「歩くレコーダー、歩くワープロ」がほめ言葉。
それにしても、よく出かけたもんだ。知り合って最初の7年間こそ、いつも赤ん坊のいる職場で、乗り物といえば自転車ばかりだったのに、いつの間にかするりと編集部を抜け出し、汽車から飛行機へと守備範囲を広げていった。
あてずっぽうで言えば、これまでに500回くらい旅にいき、そのうちの100回くらいは誘いの声がかかり、そのうちの19回くらいに同行しただろうか。
どんな旅でも出かけた先で話を聞く。聞き書きが天職だというが、聞かずにおれない性分なんだろう。いったいどこの産でどんな生業で何を大切にしどうやってここまできたのか。温泉場の共同浴場でも、ラーメン屋の小さなテーブルでも、聞いた話を箸袋の裏にメモし、書くものがなければ心に刻んだ。いつだったか、町の名士の男性の話があまりに退屈で、私は思わずコックリしてしまったのに、「あんたが寝ているから必死でこっちを向いてもらって話を聞いていたわよ」という。ありがたいことだ。
こうして足掛け26年ほど同僚として雑誌をつくり、互いの背後霊となり、「顔も見たくないほど~」喧嘩をした。
それから数年が経ち、森さんは大正大学が発行する月刊誌『地域人』に「暮らすように町に泊まる」の連載を開始。しばらくして、編集者募集の枠にうまいこと送り込まれ、著者と担当編集者の関係となった。そしてうまいこと地域人編集部を町並み好きにさせて、「生きている町並み」を特集した。今回、とんぼの本で、えりすぐりの町並みを自慢できるのが心底嬉しい。