家族の崩壊と再生を描く直球ドストレートの感動作
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
私はこの一巻を読み終えてから、しばらく他の本が読めなかった。どちらかといえば“鬼才”と評されることの多かった作者が、直球、それもドストレートの感動作を放ったからだ。本書には、表題作(中篇)と短篇「遺言」が収められている。
表題作は、女主人公の亭主の通夜のできごと。かつて亭主とわりない仲となり、自宅まで押しかけ、白蟻の駆除剤を服毒して死んだキャバレーのホステスの幽霊が現われることで幕があく。白蟻女が、あんたの思い出をめちゃくちゃにしてやると云い放ち、主人公の意識は過去と現在を往還しつつ、時に白蟻女と一体となり、時に反発し合いと、不思議な関係が続けられていく。
そして、その果てに訪れるのは、主人公と白蟻女との奇妙なシンパシーである。ここまで読み進めてハッと思い当たるのは、この作品は奇矯な設定を取りながら、テーマとして目指しているものは、小津安二郎ばりの家族の崩壊と再生の物語ではないか、という感動に他ならない。
一方、「遺言」は、余命いくばくもない老婆が、娘への遺言を「リオノコーダー」(レコード)に吹き込むという設定ではじめられる。どんな遺言かと読み進めていくと、吹き込まれていくのは、近所に住む連中の悪口ばかり。これがラストに至って、見事に一転、感動へと変化するのだから、名人芸というしかない。
そして、この「遺言」の中で、近所の悪ガキどもが、つかまえたアメリカザリガニを蒸し焼きにして喰らいついているシーンがある。政府の偉い人が「もはや戦後ではない」といっているが、その恩恵はここまで届いていないと老婆はぼやく。
作風が違うように見えるこの二つの作品に共通しているのは、戦後日本の字面ばかりが良い「高度経済成長」や「所得倍増計画」といった拝金主義に対する憎悪に他ならない。
「銭金で人間が幸せになるか」─この一言が激しく胸に刺さる。