都市空間に現われる二十五の生き物 想像を絶するイメージに呑み込まれる
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
都心を歩いていたら、犬にしてはしっぽの大きな生き物が目の前を横切っていった。あっと思う間もなく灌木のなかに消えたのを見て、何かの秘密に触れたような高揚感を覚えたが、本書にはそのときの興奮に通じるものがある。章の冒頭に物語があり、次にそのなかのシーンを描いた絵が置かれている。どんなイメージが現れるかわくわくしながらページを繰ると、想像を超越するイメージの豊かさに呑み込まれてしまう。
二歳の子供は父の運転する車で家に帰る途中、ハイウェイに馬が走っているのを見た。父親はそんなものはいないというが、彼にははっきりと見える。かつて人間の暮しに欠かせなかった馬たちは、車に座を譲って退場し、いまは高架橋に並んで夜の街を見下ろしているのだ。悲哀のなかに崇高さが感じられる、一度見たら忘れられないシーンだ。
登場する二十五の生き物は、大きなものはシャチやヤク、極小のものはハチで、現れるのは、ビルの八十七階、ハイウェイ、病院、学校の教室、裁判所、重役会議室、空港ターミナルなど、いずれも都市のなかの空間である。
ワシは空港の待合室で獲物をつかまえ、スライスされて消えかかったブタはアパートのいちばん奥の部屋に座り込み、クマは弁護士を伴って裁判所に現れ、カエルは重役会議のテーブルにのっている。どのシチュエーションにもそこでなければならない必然がある。生き物の習性がつぶさに観察された成果だ。
人と自然のあいだに明確な区分がなく、降りかかるどんな運命も受け入れていた太古の時代の、「人間がいようがいまいが僕らの頭上に大昔から広がっていた、あの冷たい底無しの神秘」に、タンの心はとらえられている。その時代を都市空間に幻視するところがすばらしい。ハイウェイに馬が走るのを見ることのできる子供が、彼のなかに今も生きているのだ。